吉野ヒロ子:1997,「テクストのエスノメソドロジー──D.スミス・A.マクホールを中心に」,早稲田大学大学院文学研究科紀要 第43号第一分冊,p68-79

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テクストのエスノメソドロジー

 

〜〜D.スミス・A.マクホールを中心に〜〜

1:テクストという領域
2:テクストのエスノメソドロジー
2-1:社会的組織化の痕跡としてのテクスト
2-2:「読むこと」のエスノメソドロジー
3:テクスト分析の可能性

1:テクストという領域

 我々が生きる世界には、さまざまな経験の領域と言うべきものが存在する。ここで言及しようとしているのは、アルフレッド・シュッツが「多元的現実論」において記述したような「限定された意味領域」、現実を構成するその領域固有の方法を持ち、他の領域との境界を何らかの形で持つようなもの、具体的にはテクスト受容の経験やシュッツの挙げている夢やごっこ遊びである。[Schutz:1973-1985]
 それらの中でもっとも社会学的に興味深いのは文字や映像などのテクストを経由して構築される経験〜〜例えばマスコミュニケーション受容〜〜の領域である。ここでは、相互行為の対象としての具体的な他者の現前を必要とせずに読まれ解釈され、それ固有のフレームを持ちうるような記号の領域をテクストと定義しよう。それが文字であるにせよ、映像であるにせよ、我々の社会はテクストの媒介によって成り立っていると言っても過言ではない。そもそも、今ある形の社会イメージには、メディアが大きく関与している。国民国家というフレーミングの形成には、ベネディクト・アンダーソンの言うように出版メディアという市場の消費とそこで流通する国民語の形成が不可欠であった。[Anderson;1983-1987]単純に我々の生活を省みても、実践的な関心に基づいて具体的に関与しあう他者と結ぶ共同体の向こうにあるはずの「社会」についての情報、イメージはメディアという経路を通じて流れ込んでくるのである。我々が共同体の中で使用する知識にしても、具体的な他者達との相互行為の中で承認が蓄積され補強されていくだけでなく、マスメディアのように、共有を前提として流通するテクスト上で描かれることによって、社会的に承認されたものとして再帰的に使用されているものにほかならない。[高山;1995]
 我々は日常的にさまざまなテクストを利用しながら生活している。テレビや新聞、雑誌、書籍など情報の経路として認識されている一対nという形で使われるもの、WWWのようにn対nで使われるものなど、その利用のされ方とそれが結果的に産出する経験の様相は多岐にわたる。では、テクストという形式を経由することによって生み出される現実は我々の生活の中でどのような位置を占めているのだろうか。
 この形式に属するような経験は多種多様であり、もちろん一くくりに総括できるようなものではない。例えば現代詩の本と実用書のように、技術的には同じものでも、内容によってまたジャンル分けされる。そのジャンルに従ってフレーミングが行われるために、現実としての質が変わってくる場合もある。
 だからこそメディア・リテラシーには、そのテクストがどのようなジャンルであるのか、どのような存在の重さをもっているものとして分別すればよいのかを見分ける能力がまず必要なのだ。だが、テクストに触れる経験一般を考えてみるなら、そこで生成される意味は、例えば夢や空想のように自己から発し自己のうちに閉じるようなものではなく、具体的な他者はここには欠けているが、自己にとって他なるものであるテクストが媒介して経験されるというもっとも基本的な機制は共通している。とはいえこれらの経験の特異性について我々は常に鋭敏であるわけではない。多くの場合〜〜例えば「フィクション」というフレーミングの中に囲いこまれてる場合を除けば、シュッツが「至高の現実」と呼んだ「現実」、具体的に現前する他者との相互行為の場を中核とする、主体が実践的な関心に基づいて行為するような領域、先に述べた具体的な共同体の世界に埋め込まれている。
 これらテクストの領域を我々は様々な形で経験し、「現実」の中に、あるいは「現実」の外に位置づけている。まずそれは、体験しているさなかにおいては、シュッツが「多元的現実論」で指摘したように、それは唯一の「いま-ここ」、「私」を内包する世界そのものとしてたち現れる。
 問題はむしろ、体験そのものの外にある。テクストに関する言説をおおまかに分ければ、二つのフレーミングにおいて問題にされると考えることができるだろう。一方では、テクストを経由した現実と「現実」の境界は立てられず、そこで交わされる内容・情報のフローのみが問題とされる。我々が最近の「ニュース」、例えば大事故なり犯罪について具体的な共同体の中で語るとき、それはすでに客観化された「事実」としてみなされており、そこではどのようなメディア経験においてその情報を得たかは問題にならない。我々は、それが「現実」とは異なる形式のもとに構成された現実において得られたものであることに気づかないことによって、現実から別の現実への跳躍のショックを経験しながらもそれを忘れることによって、メディアの介在の下に構築された現実で経験されたものを、その経験の特異性を省略された客観化された「情報」「あらすじ」に縮減し「現実」の中に流し込むことができる。ここでは読みは多様で動的な過程というよりは、記号という刺激に対するあらかじめ設定された一連の反応の過程とみなされていると言ってもいいだろう。古典的な内容分析研究や「二段流れ仮説」のようなマスコミ社会学もまた情報の流れというコンテンツに着目したものである。[Smith; 1990]
 テクストが他なる現実として現れるのは次のフレーミングである。ここでは、境界ははっきり引かれ、二つの現実は対比され、テクストを読むという経験の領域は特権化されると同時に限定されたものとして「現実」から囲いこまれる。このように、他なる現実として現れるテクスト、テクストによって媒介されていることが気付かれており、またその媒介の形式が問題とされるような経験の領域を「テクスト」と呼ぼう。文学や美学、批評などの芸術に関連したディシプリンは、このタイプの言説が制度化されたものとみなすことができるだろう。(注1)ここでは読みは快楽として(バルト)扱われる。とはいえ、「現実」なるものがあらかじめ実体として存在しているわけではない。このようにフレーミングの問題として「テクスト」を考えるなら、演劇などの活動は、具体的な身体を使った「テクスト」であるとも言い換えられる。「現実」はむしろ、「テクスト」なり他の現実と排反する形で事後的に境界づけられ「至高」化されていると言えるだろう。[石田;1996] [吉野;1996]
 多くはない例外を除いて、社会学は、「現実」にアクセントをおいた問題設定の上で営まれてきた。この傾向はおそらく、この二つの言説のタイプ〜〜「テクスト」というフレームそのものを欠落させたタイプと、「テクスト」と「現実」を対置したうえで前者を特殊化し、リアルさの重みをはく奪するようなタイプ双方の効果として生まれたものである。「テクスト」は存在しないか、存在するとしても、限定された、はかない存在なのである。
 しかし、我々の日常を可能にしているのはメディアという水路であり、少なくとも我々の社会において、社会的事実は「テクスト」の経験と「現実」の経験を織り交ぜまた分割し管理する手法によって構成されるものにほかならない。
 また近年我々の社会には新しいタイプの「テクスト」であるCMC(Computer Mediated Communication)が出現してきている。CMCにも様々な形の活動があるが、この新しい領域にしても、今のところはほとんど文字ベースのコンテンツに絵や音、あるいは簡単な動画を組み合わせたテクストを基本的な媒体としている。この新しいメディアは、近代的主体の像をずらしていく効果を持っているとされているが[大澤:1995]、理論的な機制の記述はともかくとして、その具体的なテクストの戦略、あるいはCMCを使用する経験がどのように「現実」に接ぎ木されているかといった問題には、例えばヴィクター・ターナーの象徴人類学を背景にしたダネットらのチャットのフレーミング分析なども散見されるとはいえ、それほど目が向けられているわけではない。[Danet他:1997]
 ではどのように社会学は、「テクスト」の現実の構成と、その運用のされ方に取り組むことができるのだろうか。現実を構成する方法を主要な研究主題とするエスノメソドロジーethnomethodologyの方法で、文字テクストを分析したいくつかの論文から、どのような分析が可能なのか、概観してみよう。



2:テクストのエスノメソドロジー

 とはいえ、エスノメソドロジーという方法においても、それほどテクストという領域への探求が盛んであるわけではない。エスノメソドロジーの中で大きな位置を占めているのは会話分析Conversation Analysisとそれを発展させたビデオ分析、または科学者の実践などを代表的な題材とするワークworkの研究である。ten Haveは、エスノメソドロジーの中で、研究対象の一つである「自然言語」が話すこと聞くこととしてイメージされ、「会話」が社会生活の典型と暗黙のうちにみなされていることを指摘している。[ten Have;1997]
 このような傾向をマクホールは、シュッツ経由で研究の主題として継承された現象学の「生活世界」概念、「牧歌的」で平凡な、無垢な日常的世界イメージの影響ではないかと示唆している。[McHoul;1982:p7] シュッツは「生活世界」を、前章で提示した「現実」に近い、主体が経験する地平の総体という意味と、具体的な他者たちが現れ、相互行為が行われる世界の意味で使っているが、少なくとも後者のイメージを「社会」としてとらえるならば、読みの過程のような具体的な他者なしで営まれ、またその過程をデータとして取ることのできないような営みは、「社会的」なものの周縁に置かれざるをえないのである。
 このような傾向の中で散見されるテクストを対象としたエスノメソドロジー的な分析には、おおまかにいって二つの志向が見られる。一つは、テクスト上でのカテゴリーの運用のされ方を追うもの、もう一つはテクストに埋め込まれた技法を分析することによってテクスト消費のフレーミングの形式を解析するものである。まずは前者の代表的な論者としてドロシー・E・スミスを取り上げ、それから後者の方向の例としてアレック・マクホールの議論を概観してみよう。

2-1:社会的組織化の痕跡としてのテクスト
 このアプローチは、知識の社会的決定に注目していた伝統的な知識社会学に対して、実際の道具立ての中で個人によって産出された、具体的な社会関係の中で組織化され、またそれを組織化するものとしての知識を強調することから始まっている。[Smith:1990]テクストはその知識の組織化の痕跡であり、同時に読むものの知識を組織化するようなものなのである。このような問題意識に合わせて、スミスが取り上げるのはもっぱら「事実報告」と彼女が呼ぶ文書のタイプ、自殺や警官と市民の衝突を扱う公文書など、「現実」に起こった「事実」を(客観的に)「報告」するという形をとるものである。[Smith:1978-1987] 「事実報告」は「現実」の中になめらかに埋め込まれたテクスト、それがテクストという自律的な空間であることに気づかれないまま「情報」として消費され利用されるようなテクストである。江原由美子の行った週刊誌におけるセクシャル・ハラスメント裁判報道の分析は「セクシャル・ハラスメント」をめぐる様々な実践や推論を分析したものだが、結果的にはこのスミスの問題関心に近いものとして数えることができるだろう。[江原:1992]
 では、このような「事実報告」の中でなにがどのように知識として社会的なものに組織化されていくのだろうか。スミスは報告を産出するシークエンス、報告を読み、解釈して再生産するシークエンスを連続させる形で整理している。
 発端となるのは「生きられた現実」である。もちろん観察者が記録をその事実が記録されるにふさわしいジャンルの慣習〜〜例えば観察者・作成者の一人称「私」は入れずに、常に三人称で記述するといった作法は「事実報告」に広く見られる〜〜に従って作成するまでは、出来事も「事実」も存在しない。個々の「事実」は「事実報告」の真実らしさを支える支点として機能するが、その「事実」はこの報告を産出する過程において分節化され固定されたものである。ここで「事実」として報告すべきことやそれが継起した時間シークエンスがカテゴリー化されて切り取られ、またそれに関連する資料が選び出され盛り込まれていく。
 このように産出されたテクストを読み手は「本当に起こったこと」の透明な媒介として読んでいく。そこでは「事実報告」は「本当に起こったこと」を圧縮したものと見なされており、報告が含んでいるよりもっと知られうるものがあること、少なくとも原理的には現実とチェックされることが常に前提されている。このように報告から現実性へ読み返していくことにおいて、解釈手続きは報告を産出する過程を飛び越え、現実性に直接入り込むのである。「事実報告」を書く、読むという行為は「本当に起こったこと」を構造化し、「知識」あるいは「社会的事実」として定位させることにほかならない。
 このようなフレーミングの元にスミスはいくつかの具体的なテクストの分析をしている。学生が身近な精神病者について聴き取りをしたレポートを分析した「Kは精神病だ」では、テクスト上で行われるKと呼ばれる女性が精神病であるとカテゴリー化の作業が主題としてとりあげられる。テクストが報告する「事実」を分節化し、別の接線を引き直したスミスは論文の終わりで、「事実」の集合に脈絡がないこと、脈絡がないゆえに、よりいっそう「K」の異常さが強調されていること、さらに接線を束ねても「Kが精神病」ではないバージョンの統一的な解釈には至らないことを示している。
 「事実報告」は、散漫に流れていく「現実」から「事実」を切り出し、単一の「本当に起こったこと」に向けて配置し直すようなテクストなのである。あるいはこれは、制度的に「事実報告」としての形式を持つような文書だけでなく、実験的な文学といった単一の「ストーリー」を排除するものを除いた多くのテクストの性格と言えるかもしれない。

2-2:「読むこと」のエスノメソドロジー
 マクホールは、「事実報告」を扱うスミスや江原に対して、いわゆる文学的テクストの読解の分析から出発している。[McHoul:1982] 彼はテクストの読解という観察しにくい過程を追うために、キュムレックスcumurexとリーデックスreadexと呼ぶ一種の違背実験を行っている。違背実験とは、ガーフィンケルが創始した、日常の「見られているが気づかれていないseen but unnoticed」現実を構成する方法を浮かび上がらせるための、ルールや社会的通念に逆らうことを行わせるような実験である。
 キュムレックスはある詩集からでたらめに選んだ詩の冒頭の最初の行を並べた「詩」を被験者に解釈させる実験、リーデックスはゴールディングの『後継者たち』から取った連続した7つの文章をランダムに混ぜ合わせ、十人の17歳から19歳の高校生に「もとの順番」に戻させ、被験者の回答が原文と一致しなければ原文を、一致すれば原文とは異なるがその提示する回答と異なる順番に並べ替えたものを「正解」として示し、彼らが並べ替えた順序について15分程度の聴き取りを行うという実験である。被験者は「最善」の、単一の答えに到達しようと合理的に思考しようとするので、その後の実験者とのディスカッションは、「正しい読みはどのようなものか」「どうやったらそうなるのか」といったトピックが主題となる。
 実験に使われた文は次のようなものである。

 A:彼は額にまったく髪がなく、そのため骨張った皮膚が彼の耳まで続いていた。
 B:彼の体の方に毛はたくさんあり、その頭髪は油がすりこまれたように滑らかだった。
 C:それらは薄く、彼らの頭の側面にそってきつくねじれていた。
 D:第二の男は他の者たちと異なっていた。
 E:このとき初めて、Locは新しい男たちの耳を見た。
 F:彼は幅が広く、背が低かった。
 G:その髪は彼の首の後ろで丸くなっていた。
 (代名詞を省略せずに引用から訳出)

 原文の順番はDFBGAECだが、この順番通りに並べたのは一人だけだった。
 この実験から、いくつかのローカルなルールをマクホールはサックスの会話を主題にした論考を参照しながら引きだしている。被験者たちは全員Locが視点人物であることを理解している。このLocの視点をいかに再現するかが並べ替えの一つの指針となる。被験者達は、E−C、A−E−(C)というふうに二つの文を、結んでいく。その手掛かりになるのが名詞-代名詞の対応関係であり、視点の移動のありそうな順序や接続詞、定冠詞theによる語同士の結びつきである。こうした資料をもとに、時系列をパズルのように構成していくことで、被験者達は文の前後をたどっていくのである。
 また、文のセリーが構築された後、電話での会話の始まりに来る話題を設定するような発話や、文学作品の冒頭の風景描写のような「始まり」の部分がどこなのか検討される。さらに意味のない部分が余らないように、相互に関連しあうようにして順序は仕上げられ、一つの閉じた世界が完成する。この手法をマクホールは「話題の節約」のルールと呼んでいる。
 このプロセス全般を次のように要約できるだろう。「ある人物がいかに見られるべきかという観点から発話の配列を探すという自己選択的な作業は、混乱した一節を構築するという読み手の意志を表し、出来事が継起する手法の使用によって読解可能となる秩序化に注意を払うことによって彼らは理解するのである」[McHoul:1982:p75]
 このように被験者達がばらばらになった文を再構築し、また「正解」の文の正しさをフォローイングしていくのに使っているルールは、通常の文を我々が読み、その現実を構成する際に使っているルールだと見なすことが出来る。読者は単に線的なテクストにしたがって文字に目を通しているわけではない。つまり、読みという過程の中にも「出来事の順序をフォローイングすることとして、出来事の報告を読む」[McHoul:1982:p71]といった様々なエスノメソッドが存在し、会話が動的な過程として構成されていくように、読みもまた固有のダイナミクスを持っているのである。
 このような立場から、マクホールは、バルトやデリダといった文学批評を引用しながらハイパーテキストを礼賛するような論を批判している。[McHoul;1996]
 ハイパーテキスト礼賛論では、従来の印刷されたテキストを読むことは、線的で、固定されたテクストを、読者は作者が設定した順序にしたがって読むしかなく、またそれゆえに読者-作者の関係も一方的に固定された権力的なものとしてイメージされている。それに対してハイパーテキストは非線的で、読者ははるかにたやすく自らの意志に基づいて読みを創造していけるというイメージが前提されている。
 しかしマクホールから見れば、ハイパーテキスト論が設定しているような「従来の読み」のイメージは、極めて狭いものであり、「読み」のダイナミクスを矮小化したものなのである。同様にten Haveは、読みの方向を指示する注の機能に着目しながら、ハイパーテキストの代表例であるHTML(HyperTextMarkupLanguage)ファイルに変換された論文と従来の印刷された論文を比較し、流し読みが難しいコンピュータ上のハイパーテキストの方が、まだリンク機能など読みを複線化させていくための装置が十分に使われていないこと、さらに逆に読みを複線化させていくべきポイントを限定させてしまうことも相まって、読みを不自由にしているのではないかと示唆している。[ten Have:1997]


3:テクスト分析の可能性

 以上みてきたように、エスノメソドロジーによるテクスト分析の志向を2つ認めることができる。最初の社会的組織化の痕跡としてのテクストを分析するアプローチは、「カテゴリー化」という「現実」にも共通した作業のテクスト上での分析を志向し、後者の読むという作業自体のエスノ・メソッド(人々の方法)に着目したものは、読みという作業を行為化し、その特有の構成と追及しようとするものであると言える。
 この二つの志向は、我々のテクストのイメージの二重性に対応していると言えるかもしれない。我々は、一方でテクストを読み手の産出する意味を規定するものとしてとらえる。マスメディア批判のような文脈ではテクストの権力は疑念をもつことは可能かもしれないが、多くの場合覆すことの出来ない圧倒的な重さをもつものとして現れる。冒頭で述べた「テクスト」対「現実」という二つの現実の領域の問題に関連づけるなら、このイメージはテクストという媒介を忘却し、「テクスト」という現実の枠組みを消去して、テクスト経験を情報に縮減するような態度につながっていると言えるだろう。他方で読みというプロセスの中に読み手の自由と創発を強調し、そこで享受される快楽を描き出すような立場もまた存在する。例えば文学理論や批評のように。ここでは「テクスト」は特権化され、テクストの受容プロセスの特質が強調され主題化される。
 スミスとマクホールを仮に対立させて考えるなら、スミスらの志向は前者に近い。彼女達はテクストの戦略を目標としており、ここでは読者はその戦略が描き出す単一の「事実」を追認するか、戦略に抗してテクストを解体し統一的な意味を見いだすことのできない断片の塊を手にするほかない。つまり、ここで扱われている「事実報告」とは可能ないくつかの読みを一つの方向に限定していくようなテクストであり、スミスらが扱うのは、そのテクストが一つの読みに向かって配置されていく方法なのである。この方法は、時に権力的なものとして作用するだろう。
 マクホールの志向は、テクスト受容で行われる過程のエスノ・メソッドを主題とすることによって、むしろ読みのダイナミクスを強調しており、明らかに後者のパラダイムを背景としている。ここでは焦点は「テクスト」という現実を産出する方法そのものであって、マクホールの被験者達が「正解」とは異なる順序に文を組み立て、そこにそれなりの一貫性を見いだしていたように、その現実の内容がどのようなものであろうと関係はない。というよりむしろ、その多様な読みが可能になる機構そのものが問題とされているのである。ここで問題になるのは、読み手はいかにテクストを媒介に一つの現実を構成していくかである。
 一つの読みに限定されていくテクストと、様々な読みを生み出すテクストというイメージの差異は、恐らく「事実報告」と「文学テクスト」というそれぞれが採った分析対象のジャンルの違いだけではない。そこには対象の選択に先立つテクスト受容のイメージの差異があるのではないだろうか。
 もちろん、この二つのイメージのどちらが正しいか、という問いは意味をなさない。テクストが権力を持ちうるのは、それに読み手がただ盲従するからではなく、自発的に意味を生成し、経験として構成していくからである。そして、あるときにはテクストの意味をずらし脱中心化していくような読みの快楽が存在するとすれば、それはまさにテクストの戦略を、気が付いていないが−知っているからである。
 この二つのアプローチは、対立するというよりは補完的な関係にあると考えることができる。スミスにせよマクホールにせよ、焦点は社会的実践として行われるテクスト受容のその社会性にあるのだから。たしかにスミスやマクホールが提出しているモデルは、テクスト論ではむしろ前提となっているようなものでもあるかもしれない。しかしさらに、テクストが「現実」とどのように接しているか、テクスト経験のフレーミングをも検討することによって、エスノメソドロジーによるテクスト分析は、テクストとその受容という広大な領域に社会学が踏み込む一つの突破口となり、またテクストの媒介を経て構成されるような現実の様相について新しい知見をもたらしうるのではないだろうか。



(1)また1980年代後半から見られる、「おたく」批判言説〜〜犯罪事件や流行現象などにからめて、「現実」からの逃避として「テクスト」へアクセントを置く(ようにみえる)姿勢への批判〜〜もこのタイプの例である。後者では、例えば若い世代のゲームやビデオへの耽溺が問題となり、例えば埼玉県幼女連続誘拐殺人事件以降の様々な犯罪を「現実」からの逃避としてメディアへの耽溺を位置付け、容疑者たちが代表するような人々を想定して、彼らの「現実」からリアルさがはく奪されているのではないかと危惧するような論調である。

引用・参考文献

Anderson, Benedict, 1983-1987;『想像の共同体』,白石隆・白石さやか訳,リブロポート
 メディアと共同体を語るなら基本中の基本文献。でも増補版まだ買ってないあたしって・・・
江原由美子,1992;「セクシュアル・ハラスメントのエスノメソドロジー」,好井裕明編,『エスノメソドロジーの現実〜〜せめぎあう<生>と<常>』収,世界思想社
 セクハラ報道の戦略読みとき論文
Danet,Brenda ,et al. 1997, "HMMM...WHERE'S THAT SMOKE COMING FROM?: Writing, Play and Performance on Internet Relay Chat", Journal of Computer-Mediated Communication, Vol. 2, Number 4, (http://www.usc.edu/dept/annenberg/vol2/issue4/danet.html)
 チャットをターナー象徴文化人類学で、という分析。顔文字とかやっちゃってむちゃくちゃおもろいことしてるわけではないけど、チャットのフレーミングとか整理してあります。
石田佐恵子,1996;「<フィクション>という境界づけ」,磯部卓三・片桐雅隆編,『フィクションとしての社会』収,世界思想社
 またしても登板石田先生☆(「激やせ」参照)
McHoul, A. W.,1982, Telling how texts Talk, Routledge McHoul, A. W., 1982, Hermeneutic and ethnomethodological formulations of conversational and textual talk, Semiotica, 38, 1/2, 91-126.
McHoul, A. W., 1996, 'Hypertext and readingcognition', in B.L. Gorayska and J.L. Mey(eds), Cognitive Technology: In Search of a Human Interface (Advances in Psychology113), Elsevier Science.
 バルトとかおフランスねたの引用が好きらしいマクホールさん。オーストラリアにもこうゆう人いるのねえ、という第一印象でした。ホームページには全業績整理してあって便利です。論文書いた人は全員こうしてほしいよ。
大澤真幸,1995;『電子メディア論』,新曜社
 気がつくとなんか文献表にいれてしまう文献。しかしまだ全然使いこなせない。

Smith, Dorothy.E ,1978-1987,「Kは精神病だ」,山田富秋・好井裕明・山崎敬一編訳,『エスノメソドロジー〜〜社会学的思考の解体』,せりか書房
 「激やせ」参照。勉強してないっすね。
Smith, Dorothy E. 1990;The Conceptual Practices of Power; A Feminist Sociology of Knowledge, Northeastern University Press
ten Have, Paul, 1997.Aug.23, 'Structuringwriting for reading : HTML as an explicating device', International conference : ETHNOMETHODOLOGY : EAST AND WEST, at Waseda University
 あんまたいしたことは言ってないのですが、エスノでHTMLに言及してるのはとりあえずこんだけ。学会では初日に冷房にあたって大風邪を引き、プレゼンみられなかったのは無念。 Shutz, Alfred, 1973-1985;『アルフレッド・シュッツ著作集第二巻』,M. Natanson編,渡部光・那須壽・西原和久訳,マルジュ社
 「フィクション」参照。ああああ、やっぱ勉強してないかもですよ。
高山啓子,1995;「メディアにおける日常的知識の使用〜〜カテゴリー化の実践〜〜」,宮島喬編,『文化の社会学〜〜実践と再生産のメカニズム』収,有信堂
 ブルデューとエスノの比較などもしてます。特に事例は入ってないです。
吉野ヒロ子,1996,「フィクションに対する態度」, 「社会学年誌」第37号,(http:// members.tripod.com/~yoshino/fiction.html)

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