吉野ヒロ子:1996,「フィクションに対する態度〜〜A・シュッツの文学分析への一考察」,社会学年誌(早稲田社会学会)第37号,p119-132
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フィクションに対する態度

〜〜A・シュッツの文学分析への一考察〜〜


我々は経験をそのタイプ、例えば実践的活動の領域や、夢や空想、ゲームといったものに従って、通常区別し、実践的活動の領域を上位に置く。この論文では、この区別の一つとして分離される「フィクション」の経験を中心に、経験の分別と階層化のロジックを考えてみよう。
我々は、そのただなかにある時にはフィクションの物語をリアルであると感じるにも関わらず「フィクション」の経験を「現実」のそれと分別し、時には前者が「実際には現実ではない」という理由で前者を後者の下位におく。我々のフィクションへの態度は両義的なのである。なぜ我々はそうするのだろうか。というより、その理由をどのように捉えているのだろうか。「実際に現実ではない」という言葉は何を意味するのだろうか。
アルフレッド・シュッツは芸術の空間を我々のリアリティの一つとして扱っている。彼はゲーテの短編「ノヴェレ」について未完の論文を書き、「多元的現実論」の文脈の中でいくつかの示唆をしており、その中で、彼は芸術、なかんずく文学読解の領域固有のリアリティの構成を分析している。我々は彼の記述を「フィクション/現実」を分かつ言説の一つとして読み直し、そして「現実」のリアリティと「フィクション」のそれの関係を探求しよう。最終的には、「フィクション」「現実」の差異がシュッツ理論では説明できないこと、そして「現実」の論理とシュッツ理論の枠組みが「フィクション」の空間から生じたものであることを示すことになるだろう。


1 問題設定


我々が、小説、映画、演劇といった形でフィクションの物語を楽しむ時、そこには固有の現実感覚、リアリティが生成される。
このようなリアリティの変容は、フィクションの経験に限って起きるのではない。A・シュッツがその多元的現実論で主張しているように、我々は、実践的な活動の場面すなわちシュッツが「至高の現実」と呼ぶもの、夢、科学的熟考など様々なリアリティをもつ現実を通過しつつ生を営んでいるのである。シュッツはこのリアリティの多様性を、それを構成する様式の差異に求め、さらに、このような諸現実それぞれが、それに巻き込まれている時には唯一の「いま−ここ」であるという意味で主体にとって等しい重みをもつ一方、「至高の現実」に他の諸現実はすべて基礎づけられるとしている。フィクション経験に戻れば、我々は「フィクション」の世界に巻き込まれている間はそこに固有のリアリティを生成するが、それを「現実に起こったこと」とは区別し、さらに「フィクション」と「現実」がぶつかりあう時には「現実」がより「リアル」であるとするだろうと言うことが出来る。そして「現実に起こったこと」とここで言われるものが、「至高の現実」に他ならない。
確かに、我々はそのように諸現実を扱う。しかしなぜ「現実」はそのような特権的な地位をあたえられるのだろうか。シュッツは、その至高性は、最終的には、そこにおいて他者とのコミュニケーションが可能であること、さらにそのコミュニケーションが「常識的態度」、実践的な真剣さにおいて行われることに拠っているとしている。翻って「フィクション」の空間には、具体的な他者、対面的な相互行為の場に現れる、身体を持ちコミュニケーションの相手となるような他者は介在しない。一方、活字にせよ映像にせよテクストという主体に還元できない外部と接触しているのだから、夢や空想のように、単独で現実を構成しているとはいえない。つまり、この経験は、他者と共有されるような経験つまり「現実」と、「夢」の領域のような主体の内部に沈潜していく経験のはざまにある、具体的な他者なしにテクストという他性を手がかりとして主体が構築するような現実、と考えられる。つまり、「フィクション」は具体的な他者と共にある時と、孤独な自我のうちに沈潜していく時の境界に位置づけられる領域であり、それが「現実」から分割され、階層化されるロジックを追うことによって、主体が構成する現実に対する他者の役割をどうとらえるかという問題に接近できる場であると見なすことが出来るだろう。
とはいえ、この「フィクション」と「現実」の断層は、認知様式の差異によって生まれるという方向においてのみ捉えられるようなものではない。マスメディア経験(新聞・TVなど)の多くは「フィクション」と同じ方法で構成されているにも関わらず、例えばニュースのように「現実」の延長として扱われる。「フィクション」は、その現実構成の特異性によってのみ限定されるのでない。なにを「フィクション」としてなにを「現実」として経験するかはメディアのフレーミングに委ねられるのだ。そして、「フィクション」の空間のもう一つの特徴は、例えば分析哲学の虚構文論争や文学理論において、常に「現実」との対比において「現実」から囲いこまれる形で語られ、また制度化されてきたことである。そこでは、いかに「現実」をなぞるように書かれた作品であっても、実在した人物を題材とする作品であっても、それが「フィクション」として流通しているのなら、それらの語をそれが指し示す「現実」の具体的な事物や抽象的概念に照らし合わせて判断することは、一種の美学的誤りとされている。つまりこれら言説のネットワークによって「フィクション」は独自性を与えられているのである。この点において、「フィクション」から「現実」の歴史を問い返すこともアプローチも可能だろう。
このような観点から、「至高の現実」と他の現実の関係に、先に述べたような特異な他性の介在の形式のもとに経験される「フィクション」の空間を足がかりとして接近し、「フィクション」の経験そのものの構成ではなく、この空間の成立を可能にしている「現実」からの囲いこみの言説を、我々が世界を構成する方法の一端として問題化してみよう。それら言説の一つに社会学にあっては例外的に「フィクション」の経験について言及しているシュッツの文学分析、あるいは「多元的現実論」を読むことが出来る。シュッツの理論を一つの「フィクション」に対する態度として読み解きつつ、この「フィクション」と「現実」が分節化され階層化される論理を追うのが今回の課題である。



2 シュッツ理論における「フィクション」と「現実」

シュッツの文学に対するまとまった言及は二つある。まず、1920年代半ば、ベルグソンの影響の下に書かれた草稿「文芸形式の意味構造」The Meaning Structure of Literary Art Formと、アメリカ亡命後の論文「シンボル・現実・社会」(1955)で「多元的現実論」の一変奏として詩の読解に触れている部分である。前者ではもっぱら「フィクション」は「現実」でのコミュニケーションとの対比を軸に問題化され、後者ではむしろ言語論に近い形で記述されている。前者の前書きで彼は芸術は特異なシンボル形式をもつために、合目的行為などの論理的なシンボルシステムには回収されえない、としており、また後者では、多元的現実の一つとして位置づけていることから、まずは「フィクション」を「現実」から独立したものと置き、この二つの領域の差異をそれらが構成される方法の差異に求めていることが確認できる。ここでは、「文芸形式の意味構造」を中心とする文学分析をシュッツの「フィクション」への言及として扱い、それと対比して論じている対面的状況を核とする行為の領域、「多元的現実論」で彼が「至高の現実」として特権化している領域を「現実」として扱いつつ読んでいくことにしよう。

(1)「現実」
ところで、「フィクション」が逆照射するような「現実」とはどのようなものなのだろうか。「フィクション」すなわち「本当は起こらなかったこと」から分節される「本当に起こったこと」という曖昧な言い回しはどのような領域を指しているのだろうか。
シュッツはその「多元的現実論」の中で、「現実」に相当する領域を「至高の現実」paramount realityと呼んでいる。これは対面的相互行為の基盤となる世界であり、「外的世界の現実」つまり具体的事物に満ちた実践的活動の領域において構成される。
このような諸領域を、シュッツは次のように定式化している。「ある一連の経験すべてがある特有の認知様式を示し、しかも〜〜その様式に関して〜〜各経験がそれ自体で一貫しているだけでなく、さらにそれぞれの経験が互いに両立可能である場合に、われわれはそうした一連の経験のことを限定的な意味領域と呼ぶのである。」(ママ)(Schutz,1962,渡部・那須・西原訳 1985、38頁)
それゆえ、ある領域での経験は、その領域の内部に限定してしかリアリティを持ちえない。この様々な現実間の移行は「跳躍」という一種のショックによって経験される。シュッツは、この「跳躍」の例として劇場の幕が上がった瞬間を挙げている。(Schutz,1962,渡部・那須・西原訳 1985、182頁)また、各領域は完全に弧絶したものではなく、それぞれの領域内での意味を他の領域での意味に翻訳することが出来る。例えばある小説を読んでいるとき、我々はその小説のリアリティに巻き込まれ、読み終えて本を閉じれば、リアリティは別のもの、「現実」にシフトする。我々は読んだものを「現実」から振り返り、また具体的な他者に粗筋として伝えることもできる。しかし、粗筋が作品世界と等価ではないように、小説の世界に没入していたときの経験そのものは伝えられない。
シュッツはこの諸現実の差異を「認知様式」の差異に基礎づける。「至高の現実」の認知様式の特徴としてシュッツは6つの要素を挙げている。まず、そこでは、十分に目覚め、生に対して十全に注意している意識の緊張があり、主体は自然的態度をもって世界を眺め、疑念を停止しているエポケーをもって世界に対峙している。自生性の支配的形態は企図に基づいて、身体の動きを通してそれを実現しようと活動するものであり、自己の体験は全体性をもった自己の形態において行われる。社会性は相互主観的世界として現れ、時間パースペクティヴは持続とユニヴァーサルな時間の交差による、相互主観的世界に普遍的な自生構造としての標準的ものである。(Schutz,1962,渡部・那須・西原訳 1985、39頁)このような記述に比べて、例えば夢の領域では企図に基づいて身体の動きを通して企図された事態を実現しようと活動するとは言えない。シュッツは夢の中の出来事は不可避であって、悪夢を見ていても我々にはその出来事に影響を及ぼすことがほとんどないことを例としている。認知様式とは、意識のモードであり同時に世界に対する態度であると単純化することが出来るだろう。
さて、このような様々な現実はどのような関係を相互に持っているのだろうか。様々な現実は、それぞれが「限定的な」意味領域である以上、ある現実の内部にある時、他の現実は脈絡を欠いた奇妙なものとして想起される他ない以上、論理的には等しくリアリティの重みを持つはずである。しかし、ある特権的なリアリティが存在する。「至高の現実」と呼ばれる相互主観的世界である。これをよりリアルなリアリティ、我々が「現実」と呼ぶものとして考えることが出来る。つまり、各領域間にはその「現実らしさ」に関して質的差異だけではなくいわば量的差異も上書きされているのである。
シュッツが「多元的現実論」で記述していることを要約すると、「至高の現実」の至高性の根拠は主に2点に絞られる。
a.根源性。「様々な意味領域の起源は至高の現実が特定の方法で変容するところにある。」(Schutz,1962,渡部・那須・西原訳 1985、42頁)例えば、いくつかの領域で使用される言語や概念は、相互主観的な世界にその根拠を見いだす。
b.コミュニケーションがそこにおいて可能であること。伝達者が産出し解釈者によって把握されうる外的世界の諸事実(声、文字、広義のサイン)がコミュニケーションに必要である以上、外的世界の現実、つまり相互主観的世界のうちでのみ生じる。(Schutz,1962,渡部・那須・西原訳 1985、155頁)ということは、他の現実の領域は、相互主観的世界に翻訳されなければ、他者に伝達できず、ただ内的に得られた意味として、共同化されることなく孤独な自我の内に沈潜していかなければならない。
ただし、他の現実も外的世界の現実の中で共同化されうる、とシュッツがしていることに注意しなければならない(科学的討論、子供の「ごっこ」遊びなど)。「至高の現実」と他の意味領域の差異は、単に前者が共同化された形で生起し、後者が主体の意識過程の内部でのみ起こると言うことではない。あくまで認知様式の差異によって差異が出てくる以上、主体と他者がある認知様式を同調させることによって、外的世界の中で、「至高の現実」ではない意味領域において活動することは可能なのである。それゆえ「至高の現実」は他者とのコミュニケーションの有無だけで特徴づけられるのではない。そこには「常識的態度」、実践的な真剣さが必要なのである。
さらに、別の観点からもシュッツは対面関係がもつリアリティの特異性を記述している。その核となるのが、『社会的世界の意味構成』で登場し、以後のシュッツ理論に頻出する「体験流の交差」「われわれの体験流」などと呼ばれる概念である。
シュッツ理論では、意味把握は常に反省作用を経由して行われるものと考えられている。その反省作用が分節し、意味を切り出してくる経験の源であり主体の存在の核であるものが「体験流」「生き生きとした現在」あるいはベルグソンの用語を借りて「純粋持続」と呼ばれるものである。「体験流」は主体が把握する意味の源泉でありながら、それ自体としては主体は把握しえない。それゆえ、シュッツ理論における主体は彼女自身の自己は過ぎ去った形で、部分的にしか捉えることができない。が、対面関係では、他者の思惟の表出の過程を同時性において追うことによって、彼女は他者を分割されえない全体的なものとして「生き生きとした現在」において捉えることができるとされる。このような状況を彼は「体験流の交差」と呼ぶ。さらに、この「体験流の交差」は記号解釈などでも起こるがあくまでそれは「擬似的」なものであり「対面関係以外の多様な社会関係はすべて、全体性をもった他者の自己を、時間と空間の共有の中で原的に体験することから派生してくる」としている。(Schutz,1962,渡部・那須・西原訳 1985、26頁)
つまり、問題は社会性と「実践的な真剣さ」つまりは倫理的要請であり、主体の世界への態度であり、また他者と交流する時間性の様相なのである。外的世界においてのみ、我々は出会い、自らの経験を「真剣に」伝達し共有することが出来る。この他者の「真剣な」介在、つまりは「真剣な」コミュニケーションの可能性こそ「至高の現実」の至高性を備給するものなのである。
こうした世界像は、我々の言う「現実」と重なっていると言えるだろう。 では、それに対して「フィクション」をどのようなものとして語られているのだろうか。

<2>「フィクション」
「文芸形式の意味構造」では、まず詩、演劇、小説が「文芸」のサブジャンルとして分けられ、それぞれの意味構造が分析される。とはいえ、これらサブジャンルは通常の文芸ジャンルそのままに考えられている訳ではなく、「叙情詩的」な小説もあれば、逆もある、とされており、文学の制度上の分類ではなく、文芸という形式の土台となる作者・読者あるいは観客・作品の三項の関係づけられ方によって分けられていると考えられる。その中で中心的に論じられているのは詩、特に叙情詩である。この論文は、主題として構想されたゲーテの「ノヴェレ」の分析に入る前で中絶しているが、このゲーテの小品を叙情詩的作品として扱う計画だったのだろうと推測する事ができる。
文芸形式一般の特徴は2つ挙げられている。一つ目は、作者と読者のスタンスの非対称性である。読者は作品を通じて作者の思考や感情の機微に触れたと感じることはできるが、作者は個々の読者を志向しているわけではない。これは単純に、読者は私的なものとして読み、親しい感情を作者に抱くことがあるにせよ、読者は不特定多数の読者を対象とする出版物を介して作者に出会うのであって、作者は、読者から隔てられているという事情による。社会的行為としての表現は、なによりも他者の理解と反応に賭けられているものであり、インタラクティヴに文脈が決定されていくものなのだから、ここでは通常言う意味でのコミュニケーションは成立しない。
が、読者の立場からはこのような断絶は見えない。読者の解釈は、作者の主観的な意味定立と一致すると思われつつなされるのである。この構成において、シュッツが文学的「コミュニケーション」の特徴であるとしている「無限の解釈の現実化」が現れる。この解釈の無限性は解釈という行為そのものに原理的には含まれるものだが、対面的な状況では、主体は他者の行為を無限に解釈することはできない。まずは他者の行為に応答することが求められているのだから。文芸形式においては、作者と読者は隔てられ、行為の連鎖が生じえないために、我々は作品を無限に解釈し続けることができるのである。
もう一つの特徴は、そこで体験されるものの射程である。特に音楽と叙情詩的作品について、シュッツは、これらの作品の目標は、本来言語によって表現しえない純粋持続すなわち反省作用によって分節され経験として把握されるがそれ自体としては把握されない意味の源泉を、その本性として完全に表現することはできないにせよ「漸近線的に」表現することにある、としている。さらに、叙情詩的作品においては、作者は言葉を自らに向け、ただ表現し、自己をそこから形成し、読者は、その作品を読むことを通じて、言語メディアの創造的形成とそれを介して変成された経験を共−体験するとも言われている。(Schutz,1982,pp162-163)つまり、読者は作者に同一化してその創作過程を共−体験し、それによって、作者の純粋持続と読者のそれが交じり合う、と言うのである。「芸術の詩的作品は、詩人の人格の背後に完全に消え去る。すなわち、読者は常にある個人的人格の主観的表出の面前に居合わせているという感情に支配されている。」(Schutz,1982,pp164)そして、この詩人の体験の反復は、詩人の純粋持続にもおよぶ。
注意したいのは、構造主義以降の文学理論では作品体験の最終審級としての「作者」は死んだとみなされており、ここでのシュッツの記述は文学一般ではなく「作者」が誕生したドイツロマン派美学の読書モデルを前提としていることである。キットラーは、この時代の詩学の特徴として、意識を構成するものすなわち言語を媒介とすることを理由に詩を特権化し、作者の精神が直接読者の精神に現れる唯一のメディアとして扱ったことを挙げている。(Kittler,1990,pp112-114)「文芸形式の意味構造」はこのようなモデルを前提にしたものとして評価されなければならない。
後期の論文「シンボル・現実・社会」では、「フィクション」上の言語は「現実」における言語のような間接呈示的関係によって結ばれた指示物を伴わないことが挙げられている。 「現実」から見れば、ぬいぐるみを着た人間が、舞台の上では、馬であり、馬として名指されてもまったく問題はないのである。人間のつまり、虚構経験の中では、真偽の判断はいったん宙づりにされ、言語の網の目は美的判断 によって支えられる。もっとも、この判断がいかなるものかはシュッツは積極的に説明しようとしていない。我々も、ここでは、単純に真偽判断とは異なる論理による感覚的な判断として扱おう。
シュッツが「フィクション」の領域の特異性として記述したことは、3つの命題に要約することができるだろう。
a-1.行為の連鎖が起こらず、厳密な意味でのコミュニケーションが成立しない。
a-2.言葉で表されない純粋持続(体験流)が表現される。
b.「フィクション」の語は、それが指示する対象に参照し真偽を判断することによってではなく、語と語の連関において美的に判断される。
aは、主体が構成する現実に他者がどのような形式で介在するかという問題において、bは間接呈示的関係すなわち言葉と物の関係の性質の特異性において、問題化されており、異なる問題系を切り開くと考えることができる。
これに対して、シュッツの「現実」はもっぱらaの問題関心に近い形式で語られている。ここでは前者のテーマから、他者の参与の問題、そしてそこにおける純粋持続の位置づけの問題としての「フィクション」と「現実」の対比から、初期草稿を中心にシュッツ理論の一つの帰結を追っていこう。



3 「現実」対「フィクション」

シュッツ理論において他者の機制を語ろうとするとき、常に問題になるのが、彼の方法が二重化されていることである。彼は、主体の内部をフッサールが立てた超越論的独我論の手法、日常で我々が自明視していることをいったん棚上げして主体の構成を問う方法によって分析し、社会的世界を自然的態度内在で記述するのである。もちろん、この方法の分裂は我々が日常的に使い分ける理解不能性を強調する独我論的立場と、理解可能性を前提とする共在論的立場の分裂に即応しているものであり、この方法の二重化は、生活世界の構成を記述するためには正当なものであることは疑いえない。
しかしこの二重化された方法によって、「フィクション」「現実」の分割を他者の問題として語ることはできるのだろうか。

<1>コミュニケーションの問題としての「フィクション」
シュッツが描いた文学経験の特徴は、先に素描した我々の「フィクション」経験の特質と合致すると考えることが出来る。
だが、「現実」と「フィクション」の相違を説明する手順は正当なものなのだろうか。この二つの領域の差異が、他者の現実構成への参与の形式にあること、また他者との「真剣な」コミュニケーションが可能であるが故に「現実」は他の意味領域に対して至高性を留保することを先に確認したが、「現実」における他者の参与の形式とはどのようなものとして語られ、どのように「フィクション」のそれと異なるのだろうか。
「文芸形式の意味構造」で提出されている「現実」におけるコミュニケーションのモデルをやや長くなるが引用してみよう。
「話し手は、言語の与えられた意味文脈〜〜聞き手にも与えられていると彼が前提している〜〜から、彼が表現しようとし、聞き手が再生産するよう誘導するだろうと仮定している意味概念に適切であると考える要素を選び出す。彼はこれらの要素と全体的な言語それ自体のコンテクストの間と同様、言語の一般的なコンテクストから選ばれた要素の間に新しい意味コンテクストを定立する。(略)
聞き手については異なる。まずなによりも、彼は彼に伝達されたものである言語の客観的素材に関わる。(略)聞き手は、彼に伝達されたものを統合し、それを、与えられた言語素材の客観的意味コンテクストの観点から解釈する。ここから、彼は、彼の聞いた発話のコンテクストを追求する。いわば、話し手が意味した意味を理解しようとする。しかしながら、彼はこれを、言語の客観的コンテクストに、聞いた言葉を統合することによってしかできない。このことは、話し手が、一方で言語の客観的意味コンテクストと、彼が選んだ要素の間に、もう一方で『流用された』要素と『伝達された』それとの間に『正しい』接続を設立するのに成功した場合にのみ可能である。」(Schutz,1982,pp160-161)
ここで彼は、話し手は言語的素材を主観化して意味定立をなし、聞き手はそれを解釈するが、彼女が客観的なものと思いなしつつ行う解釈は彼女の主観に限界づけられた主観的なものである、としており、話し手の最初の意味定立と、聞き手の解釈はあるいは僥倖によって一致するかもしれない、としている。シュッツは、一貫してコミュニケーションを意志の疎通、あるいは意味の伝達と考えているが、主体が他者の言葉を聞くとき、それは他者の意味定立であると思いなされつつ、主観的解釈として彼女の内に回収されてしまう。このような図式では、行為の一つの資源として、他者の発話、行為が取り込まれることは可能でも、その意味はすべて主観なるものに回収され、我々は、なにものかを伝達された、伝達した、と思いなすことは出来ても、伝達することそれ自体は不可能になる。
もちろん、行為は他者に向けられたものでもありうる。だが、主体は、他者の行為と自らの行為を、本質的には主観的な解釈としてよどみなく把握し、行為を自らの企図に回収してしまう。「言い換えれば『行為はいつはじまり、どこで終わるのか』、すなわちその行為はなぜ完遂されているといえるのか、ということを知っているのは、その行為の行為者だけなのである。行為の単位を決定するのは、行為者の企図の及ぶ範囲に他ならない」(Schutz,1962,渡部・那須・西原訳 1983、74頁)個々の行為は志向性において行為の連鎖を形成するが、個々の行為それぞれ、および行為の連鎖の意味は、主体の意識に帰属するのである。このような枠組みにおいて、他者をその現実構成に介在させるには、主体は意味を十全に所有しすぎているのである。
そうであるならば、「現実」の至高性を保証するものとして先に確認した対面的な他者とのコミュニケーションは、読書における擬似的なコミュニケーションとどう違うのだろうか。たしかに、読書過程においては、他者(作者)が直接、読者の読みにコメントしたり、そのことによって読書体験の方向を変えたりすることはありえない。だが、現象学の影響を受けた文学理論家イーザーは、読書、すなわちテクストの具現化は一種のテクストとの対話だとし、我々がある本を読み進めつつある時、まだ読まれない部分は、ちょうど対面的状況における他者の反応の不確定性と同じように、未来として我々を待っていると主張している。そしてこの未来は、我々が読み進める間に生成したコンテクストによって、その意味を変容させることが出来る。(Iser,1976,轡田訳、1982 276-278頁)。話し手が話したことの意味を、聞き手が解釈したことの意味をそれ自身の内に回収してしまうのなら、対面的状況においても作品の読解においても、他者は解釈の素材を提供し、主体は意図した、あるいは解釈した意味を何者にも脅かされることなく所有してしまうという点で、他者が現実構成に直接参与することの意味はぼやけ、「フィクション」と「現実」を分かつ論理は散乱してしまうのである。
この難点に対して、対面的相互行為の場という状況の特権性を記述するためにシュッツが提出したのが、「体験流の交差」「われわれの体験流」と呼ばれる概念である。次節ではこの概念を検討しよう。


<2>純粋持続の位置
我々は先の節で、シュッツの行為主体が他者の行為を自らの解釈に還元することによって独我論的牢獄に閉じこめられていること、そうである以上、「現実」の至高性を保証し、同時に「フィクション」と「現実」を分かつ最終的な根拠の一つである対面的なコミュニケーションの可能性の持つ意味がぼやけてしまうことを確認した。しかし、我々は、日常生活において、こうした独我論的視点を取ることもあるが、他者の存在と理解可能性をまずは自明視してコミュニケーションという場に臨み、(とりあえずは)コミュニケーションに成功したと思いなす事が出来る。どうしてこのようなことが可能になるのだろうか。
「文芸形式の意味構造」で記述されたコミュニケーションモデルを振り返ってみよう。
まず、話している「私」の意味定立の様態が語られ、その後に聞いている「私」の解釈過程が記述される。話し手と聞き手はそれぞれ互いの立場を想像的に置き換えて他者の意味定立を取り込んでいるのだが、このような分析において、シュッツの読者である我々は、あたかも複数の登場人物の視点から書かれた小説を読むときのように、まず話し手の立場に、次いで聞き手の立場に自らを代入して理解することが出来る。そして、この立場の互換性、誰にでもあてはまる「私」が、それぞれの主観性に封じ込められているはずの諸主体の間で、理解を可能にさせる装置なのである。
つまり、シュッツの、あるいは我々の実践の論理としての独我論的主体という装置は、あらかじめ他者との立場の互換性によって、容易に独我論の檻を破ることの出来るような装置なのである。方法として独我論を取るならば、その時点で他者の様々な表出の向こうにある知りえないものが、コミュニケーションの成功すなわち意味定立の一致を脅かすものとして措定されざるをえないのだが、この互換性という装置の媒介によって、他者の脅威は排除されうるのである。このように構築された「独我論」は、孤独であるはずの自己が想像的にあらかじめ獲得してしまう共同性において、そのそもそもの問い、他者の問題を取り逃さざるをえない。逆に言えばそれゆえ、主体は行為や解釈の意味を完全に所有することができるのである。我々が独我論的立場と共在論的立場を使い分けられるのは、またシュッツが方法を分裂させたのは、この装置によって両者が通底しているからに他ならない。
ここで読み返さなければならないのは、シュッツが「現実」の分析において概念化し、社会関係の原的体験だとされていた「体験流の交差」「われわれの体験流」と、「フィクション」の特異性の記述において登場した純粋持続の問題である。純粋持続/体験流は、反省作用によって分節され意味として把持されうるにせよ、それ自体としては言語化・シンボル化つまり外在化しえない基層であり、そうであるために名付けることができないし、その必要もない無記名なものである。主体の核でありながら主体が所有できない内的時間の流れということもできるだろう。この基層の交流はどのような論理に則って行われるのだろうか。
「われわれの体験流」の例を見てみよう。
「たとえばある講師の講義を聴いている場合、われわれはその講師の思惟 の流れの展開に直接参加しているように思われる。(中略)その他者が話しているのとわれわれがそれを聞いているのとは、生ける同時性として体験されているのである。いま彼は新しい文を話し始め、語に語をつないでいく。われわれは、その文がどのように終わるのか知っていないし、さらにまたわれわれには、その文が終わるまではそれが意味していることもはっきりとはわからない。その文が終わると次の文が続き、また段落に段落が続いていく。(中略)だがそれについていこうとする限り、われわれはその他者の思惟の直接的現在に参加しているのである。」(Schutz,1962,渡部・那須・西原訳 1983、265-266頁)
この例で目につくのは、話す他者の思惟と、話されつつある言葉は同一のものとみなされていることである。そのために、「私」は他者から流れ出る言葉を、他者の思惟として体験することが出来るのである。
とはいえ、言葉と思惟をそのまま同じものとしてみなすことができるのだろうか。確かに、少なくとも経験的には、我々は他者のことばを他者の思惟の直接的反映としておおむね扱う。しかし、人はフレーミングによって、自らの思惟と、話すという行為が遡及的に指示する話す主体の思惟を意図的に分離する事が出来る。ここで話し手の思惟と、話し手の言葉が指示する思惟、つまり聞き手がその解釈において話し手に想像的に付与する思惟との裂け目を隠蔽するのが、「私」という装置に他ならない。聞き手は、話し手の言葉が指示する思惟に「私」という装置を経由して自らを代入し、この想像上の話し手の思惟を彼女が到達しえない話し手の思惟そのものとして実体化することによって、想像上の話し手の思惟と、話し手の思惟の断絶を消去するのである。「われわれの体験流」において体験流概念は、意識上の主体の内部、互換可能なものに組み入れられ、いわば「私」化されているのである。
しかし、注意しなければならないのは、「われわれの体験流」概念が安易な自他未分を定立しようとしたものではないことである。「われわれ」という複数形で示唆されているのは、対面的状況にあって体験流が、ベルグソン的な意味で「同時的」なもの、つまり一つであっても二つであっても変わらない流れとなるとしても、視点としての主体と他者は身体という物質的な盾がある以上重ならず、主体と他者のずれそのものは溶融することなく保持されることである。我々は、対面的な他者との間に、一種の感情の交流、言語化しえない共同性としか言い表せないなにものかを感じることはできる。しかし、むしろ対面的な場こそ、身体という物質的に主体と他者を分け隔てる2つの檻のゆえに、主体と他者が溶融することの不可能性が現出する場であり、立場の互換性が破られうる契機を含む場なのである。
だが、叙情詩的作品の読解において与えられる作者と読者の純粋持続の同一化はそうではない。叙情詩的な作品において、そこで体験される純粋持続は、詩人のものであると言えないし、また読者一人には還元しえない。同時に、無記名であるがゆえに、純粋持続は諸主体の間に宙づりにされ、かつ誰にでも帰属しうるものとして扱われるだろう。そしてこの分有において、読者は、複数一人称「われわれ」という留保なしに、作者をその純粋持続から、つまり主体構成の根底から体験することができるのである。ゲーテ以降の近代文学が整備した作者への同一化という装置において、読者は、いわば、書くように読む。書くことと読むことは混ざりあい、そして書くことが自己表現であった以上、読むことはもう一つの自己表現となる。ここにおいて読む能力があるなら誰もが参入しうる文学を媒介とした共同体が成立する。自己表現が、リテラシーさえあれば誰にでもアクセスしうる形式において流通することによって、読者たちは共通の自己表現の形式を獲得し交換することが可能になったのである。
ここにおいて、対面的状況における体験流の交差との差異をはっきりと読みとることが出来るだろう。「われわれの体験流」概念においては、身体の差異が主体と他者の差異を留保し、主体はこのずれのうえで、他者の体験流に波長を合わせる。あくまで、二つの体験流があり、その二つの間に同時性が発生するのである。叙情詩読解における体験流の交差はこのようなずれを持たない。この場には複数の身体は存在しないのである。読者は作者に同一化し、あるいは作者の像を自らの読解の上に書き込むことによって、作者をその根底から体験することができるのである。ここには単数の純粋持続、作者のものとも読者のものとも名付けられうる純粋持続しか存在しない。つまり、読解における純粋持続の同一化が、主体と他者の立場の互換性に則って構成される共同性の論理、「現実」の論理をより完全に実現するのである。
そして、このような「私」、このような方法で確保された共同性は、もちろん通文化的・通時間的なものではなく、近代と呼ばれる時代のものである。ハーバマスらの歴史分析を援用するなら、このようなタイプの独我論によって支えられる共同性は、18世紀後半に出現した文学共同体に一つの起源をもつと言われている。シュッツが「フィクション」の論理として主に依拠したロマン主義的美学は、意識を構成し理念を表現するものとして言語をとらえ、その言語を媒体とする文学特に詩的作品を直接作者の精神が読者の精神に現れる「芸術」として特権化させるスタンスを固めた。一方、18世紀初頭に始まった著作権の法的保護と連動して作品の意味を作者の精神に帰属させることによって、読者と作者の霊的交流という読書のスタイル、読んでいる「私」(読者)と読まれている「私」(作者)が身体という最終的な自己と他者の差異を消去して混ざり合い同一化してしまうようなスタイルを産み出した。このような美学史上の革命と印刷メディアの成熟と教育制度の変動を背景に、読むことを通じて自らを主体化し、読んだことを討議する文芸的公共性が成立したのである。(Harbamas,1990,細谷・山田訳 1994、63-64頁)(Kittler,1990,pp108-123)
ここで、仮説を立ててみることができるだろう。「フィクション」は単に「現実」から派生したものではなく、シュッツ理論が映し出した我々の現実構成の方法、「私」という人称を媒介とした主体と他者の立場の互換性によって獲得されるような共同性と、それが可能にする独我論的立場と共在論的立場の併存という枠組み、つまりは「現実」が至高化される枠組みそのものが、「フィクション」の空間すなわち文学というメディアの効果として生まれたのではないかと。




4 結論

我々はシュッツ理論を一つの「フィクション」を囲いこむ言説として検討した結果、彼の採る方法、我々が世界を運営していく方法では、最終的に「現実」「フィクション」の差異を説明しきれないという結論に至った。
「現実」と「フィクション」の差異は、最終的には、他者が主体の現実に介入する形式にある、と「現実」「フィクション」とを分かち後者を前者に従属させる言説はする。「フィクション」のリアリティにはテクストという他性が、「現実」のそれには具体的な他者が介在するが、「現実」をより「リアル」なものとしてそれら言説が崇高化するのは、そこに具体的な他者が現れるからなのである。
しかし、シュッツ理論において、具体的な他者が現れることの意味は、彼の理論を貫く、超越論的独我論による主体構成の分析と自然主義的態度内在での社会的世界の分析という分裂の間に抜け落ちていることを見た。この二つの方法は「私」という装置を経由して通底し、具体的な他者という機制を、その循環のうちに封じ込めてしまうのである。もちろん、このことをもって、シュッツの理論そのものが誤りであったと単純に言うことはできない。彼の理論は、我々の日常的態度、すなわち共在主義的立場によってあらかじめ措定された理解可能性「我々は理解しあうことができる」と独我論的相対主義「我々は互いの心を知ることは出来ない」の混合の記述でもあるのだから。




引用文献
Harbermas, Jurgen, 1990,Strukturwandel der ffentlichkeit,Frankfurt:Suhrkamp Verlag.(細谷貞雄他訳『公共性の構造転換』(第二版)未来社、1994)

    ・いかんともしがたい名著。特に「文芸的公共性」についての議論は勉強させていただきました。このメディア史VS近代ネタが入っている最重要文献としては『想像の共同体』(ベネディクト=アンダーソン)。ダーントンの「読者がルソーに応える」(『猫の大虐殺』・岩波同時代ライブラリー収)も時代違うけど面白い。

Iser, Walfgang,1976,Der Akt des Lesens,Theorie aesthetischer Wirkung ,Munich;Wilhelm Fink.(轡田収訳『行為としての読書』岩波書店、1982)

    ・一抹文芸理論としてはトロいのだが、シュッツとは適合性よし。受容理論と呼ばれる現象学・解釈学の影響が強い学派の主著ということになっている。

Kittler, Friedrich A.,1990,Discourse Networks,1800-1900 ,Stanford;Stanford University Press

    ・恐怖のイケイケ本。そのうち邦訳出るという風の噂を聞いたのだが、どうなったのだろう。キットラーの邦訳論文については「現代思想」をチェック。

Schutz,Alfred,1932,Der Sinnhafte Aufbau der sozialen Welt,Vien:Springer.(佐藤嘉一訳『社会的世界の意味構成』 木鐸社、1982年)

    ・シュッツの主著。フッサール先生激賞。まったりとした現象学用語まみれの展開は最初はちとつらいが、そのうち慣れます(笑)。とはいえ、著作集から読むのが基本か。

Schutz,Alfred,1962, Collected Papers : The Problem of Social Reality,M.Natanson (ed.),Netherlands;Martinus Nijhoff.(渡部光・那須壽・西原和久訳『アルフレッド・シュッツ著作集1』マルジュ社、1983年・渡部光・那須壽・西原和久訳『アルフレッド・シュッツ著作集2』マルジュ社、1985年)

    ・現象学のアメリカへの紹介論文からフッサール先生最晩年の思ひ出(要チェック)、モーツァルト論も入っている。修論で主に読み込んだのは「多元的現実論」「シンボル・現実・社会」(第二巻)「ドン・キホーテと現実の問題」(第三巻)。

Schutz,Alfred,1982, Life Forms and Meaning Structure ,H.R.Wagner(Trans & Ed.),New York:Routledge & Kegan Paul Ltd.<BR>

    ・初期草稿ざます。ベルグソンの影響が強かったといわれている時期のだけど、問題関心に最晩年まで通底するものあります。ワグナーの英訳はちと読みにくかった。

スペースの都合上入れられなかった最重要文献は

    永井均先生の『<私>のメタフィジックス』(勁草書房・1986)。この本をあえて社会学的に大誤読することからよしのさんの修論は始まったのだった。先生の『子どものための哲学』は人生に不可欠な一冊かもしんない。
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