吉野ヒロ子,1997,「『激やせ』という病── 女性週刊誌における「やせること」の意味──」,年報社会学(関東社会学会)第9号,205-214頁
注:事情により発表される稿とは若干異なる点がございます。年報社会学の方を決定稿としております。
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「激やせ」という病

── 女性週刊誌における「やせること」の意味 ──
A Study on the discourse geki-yase (terribly-slim)

1.問題の所在
2.「激やせ」表現とメディアとしての女性週刊誌
(1)「激やせ」の発生と展開
(2)メディアとしての女性週刊誌
3.「激やせ」の運用
4.結論

 


Since 1990, we have seen a new expression about women's bodies in magazines, especially those devoted to an audience of women. The term geki-yase (getting terribly-slim or often awful-slim) indicates several aspects of the 'slimmed body.' It refers to dramatic effects of commodities for slimming, a successful slimming diet of an actress (and her method), or too haggard a body as a result of excessive slimming, as well as eating disorders. We can say geki-yase means slimmed bodies, but the bodies are contrary to each other in social valuation. What does the expression represent? Finally, we analyze the politics of geki-yase mainly from weekly magazine for women.


1.問題の所在


2、3年前から、女性週刊誌などに「激やせ」という文字が踊っている。多くの場合は摂食障害「のような」状況(極端な体重の減少、外見の変貌、「異常」な行動)を指すものとして使われているが、一方ではダイエットの成功・成功を可能にするダイエット商品の謳い文句としても使われている。このような表現は他の女性誌や一般マスコミにも伝播し、日常でもある程度は一般名詞として使われているとみなすことができる。
摂食障害の一つの表象ともなっている「激やせ」という表現は一義的には「やせた身体」という状況を指すと捉えることは可能である。しかしその「痩せた身体」は、痩せすぎた身体として言及される「拒食症」、「理想身体」[柄本;1993]として設定されるイメージ、といった様々な局面をはらむ。「激やせ」は単に「痩せた身体」を指す語としてとらえられるべきではない。「激やせ」は「やせる」ということにまつわる「拒食症」「理想身体」という相反するカテゴリーを横断して成立し、それゆえに現在の女性の身体がどのように配置されているかを映しだす表現なのである。本稿では、まず「激やせ」が増殖したメディアである女性週刊誌の特異性からこの表現が増殖しえた条件を考え、女性週刊誌を中心とした雑誌メディアでのこの言葉の用法を軸にカテゴリーとしての「激やせ」の運用のされ方を追うことで、摂食障害者あるいはダイエットする身体そのものについてではなく、「激やせ」という表現が表象するもの、「痩せる」ことの意味を考えてみたい(1)


2.「激やせ」表現とメディアとしての女性週刊誌


(1)「激やせ」の発生と展開
では「激やせ」という表現は、いつ発生し、どのように展開していったのだろうか。
大宅壮一文庫目録[大宅壮一文庫編,1996,1997]およびデータベースに収録されている雑誌記事名で初めて「激やせ」という言葉が見られるのは、「週刊明星」の1990年8月30日号「中森明菜『激やせ』・なんと太モモにタテじわが!!」である。1970年代終わりの「激写」から見られる「激辛」(1986)[稲垣,1989]「激安」[朝日新聞社編,1994]など接頭辞「激」をつけた造語の一つとして作られた表現だと思われる。(以下、記事タイトルについては誌名発行日を示し、記事内容からの引用にはページ数を示す)
この表現は、しばらく間をおいて「女性週刊誌」に分類される「女性自身」「女性セブン」「週刊女性」などに飛び火する。初出の例と同じく女優・歌手・タレントなど「芸能人」関連の記事タイトルに「激やせ」「激ヤセ」が登場する場合を大宅壮一文庫目録人名編から抜き出してくると、91年1件、92年4件、93年5件、94年4件、95年43件、96年28件となっている。同時に「激やせ」だ、と言及される人物も91年・92年1名、93・94年2名、95年には7名、97年には6名、と広がっていくことがわかる。このようなタイプの記事を以下「激やせ」報道と呼ぼう。これらの記事では、例えば前出記事のリードに「体重が40kgを大きく割り込んでいると心配するスタッフもおり、専門家の中には『拒食症』の可能性を指摘する人もいて‥‥。」(週刊明星,1990.8.30,26頁)と既にあるように、「激やせ」報道では「拒食症」とリンクされて語られることが多い(2)。このような意味での「激やせ」はまた他の雑誌メディアにも流用され、スキャンダルとして引用されたり(「人気美女『激ヤセ』の原因はそろいもそろってオトコ」アサヒ芸能,96.9.19)、また女性誌でダイエットの危険性の警告という文脈で使われる場合には(「他人ごとではありません、『激やせ』の危険はあなたにも。」anan,1996.1.19)、一般名詞化されて摂食障害を指示する語として使われている。また一般週刊誌などでも、摂食障害が増加している現象をまとめる記事などに使っている。このような「激やせ」を仮に「ネガティブな『激やせ』」と呼ぼう。ネガティブな「激やせ」は「激やせ」表現の大半を占め、対義語として「激ぶとり」(女性セブン,96.5.16他)、同義語として「ミイラやせ」(週刊女性,95.10.5)「老婆やせ」(女性自身,95.11.14)、やや弱いニュアンスとして「激やつれ」(女性自身,95.10.24他)と一群のシソーラスを形成する。ただし、このシソーラスは他の雑誌ジャンル上には見当たらない。
「激やせ」報道が女性週刊誌に行き渡ると同時に、女性週刊誌の記事タイトルに別の文脈で「激やせ」という言葉が使われ始める。ダイエット商品のパブリシティ記事にその効能の謳い文句として使われる場合や、また「芸能人」のダイエットの成功を報じる記事である。これらをポジティブな意味の「激やせ」とみることができるだろう。女性週刊誌のダイエット商品(ダイエット中の栄養補助食品・マッサージクリームなど)の広告文では、字義通り達成されるならば医学的に問題になりかねないような極端な効能を謳うものが多いこと、また、ダイエット記事に関しても、運動などカロリー消費と「栄養バランスを考えた食事」を中心に健全なダイエットというイメージを押し出すファッション誌やより高年齢向けの女性誌と比べて、「単品ダイエット」(ゆで卵など一つの食品を大量に摂取するもの)のような無理なダイエットも目立つことに注意したい。「激やせ」報道で問題となる急激な体重の減少は、それに「過剰な」「過激な」という形容詞がつかないただの「ダイエット」であるかぎり、望ましいものなのである。
このポジティブな面の「激やせ」もまた写真週刊誌の広告記事など他の雑誌メディアに流用される。しかし、「激やせ」のポジティブな面とネガティブな面、そして同義語・対義語といったバリエーションが増殖したのは女性週刊誌という枠の中であり、他のジャンルはむしろ女性週刊誌の中でで醸成されたニュアンスを引用する形で使っているとみなすことができる。特に「激やせ」報道では、95年の「宮沢りえ」に関する記事で「激やせ」が記事名に入っている点数を比較すれば、女性週刊誌3誌で30件、写真週刊誌3誌で6件、その他週刊誌・月刊誌9誌で15件となっており、一誌あたりの平均ではその頻度は5倍以上の差がある。
「激やせ」という表現について考える時、女性週刊誌というメディアのスタイルと切り離すことはできない。結果的に女性週刊誌に高い頻度で「激やせ」が出現したというより、もっと積極的な役割、「激やせ」という言葉を増幅し様々な用法を生み出すという役割をこのメディアは果たしているのである。殊に「激やせ」報道の再生産に女性週刊誌は主に3つの点からみて適したものである。女性週刊誌におけるスキャンダル報道のもつリアリティの質と物語の媒体としての性格というメディアの形式に関わる2点と、女性誌一般に共通する「やせること」への強い関心というコンテンツに関わる点である。以下、女性週刊誌というメディアの「報道」の性質をこうした観点からまとめてみよう。

(2)メディアとしての女性週刊誌
現在「三大女性週刊誌」と呼ばれる三誌は1950年代後半から1960年代前半にかけて創刊されている(57年・主婦と生活社「週刊女性」/光文社「女性自身」、63年・小学館「女性セブン」)。創刊当時は女性向けの総合情報誌として編集されていたが、65年頃からの後発誌の増加による市場の奪い合い、70年代に入って起こった「anan」などファッション誌の創刊ラッシュによる女性誌という市場そのものの再編成によって、差別化戦略として「過激さ」を強調するようになり、現在のゴシップ・スキャンダルが前面に出るスタイルが定着した、と言われている[矢崎,1992,104-106頁]。 他の女性誌との一番大きな違いは、スキャンダル報道の媒体となっているという点なのだが、この「過激さ」といわれる印象は芸能人の動向、あるいは犯罪事件の周辺を対象とするストーリーテリングのスタイルに拠っているといえるだろう。多くの女性誌に共通する料理・ダイエット・ファッション記事などももちろん登場するのだが、新聞広告や表紙などで強調されるのはこの「過激」な報道である。1996年版『雑誌新聞総カタログ』によれば、「週刊女性」約53万部、「女性自身」約67万部「女性セブン」約77万部(いずれもABC調べ)となっており、各社調査による読者層の分析ではいずれも20代女性が5割を越えている[メディア・リサーチ・センター,1996]。
ネガティブな「激やせ」が登場するのは、この「過激」に行われる報道という場面である。では、「過激」な報道とはどのようなものなのだろうか。
「過激」ではない報道、新聞に代表されるようなタイプのメディア、「この世界に起こった出来事を報道している」という形式をもつメディアは、現実に起こった事実と読者の透明な媒介であることを倫理として要請される。新聞の報道はそれが言及する事実が客観的であるように振る舞う。ここでは、直接事件に関わった当事者や取材者の活動に当然含まれていたはずの主観性が消去され、事実は客観化・対象化され、誰もが反復できる「知識」として社会的に組織化されている。そして現実に起こった事実を「知識」に組み入れる基準は「公器」としての倫理によって制御され、「客観性」を損なうとされる伝聞などの曖昧なデータや取材者の主観を極力排除する方向に組織化の手法は向けられている(3)
これに対して、女性週刊誌などイエロー・ジャーナリズムの報道はより曖昧な立場に立つ。なんらかの事実に立脚しなければならないという要請は、この世界に起こっていない物語を語る「フィクション」ではない以上ここでも存在する。しかし、センセーショナリズムを重視するこのタイプのメディアでは、それなりの手法に基づいてテクスト上の「事実」と「現実」に起こった事件そのものが接点を持ちうるかのように構成されていても、「事実」と「事実」の間を推測あるいは解釈で埋めることについてより寛容であり、コンテクストを裏返して「事実」を否定する当事者のコメントを提示するような場合、より積極的な形で読者の読みを誘導することも許される(「だが、りえがどう言おうとその激やせぶりは、誰の目からみても異常としか映らない」女性自身,1995.9.17,46頁)。「過激さ」を可能にしているのは、このようなテクスト上の「事実」の構成がより緩やかな基準の下で行われているためである。「激やせ」報道の対象者は全員「拒食症」であることを否定し、マスコミとの接触も避けているが、それでも「激やせ」報道が膨らみ続けたのは、日常の買い物などプライベートな場面の目撃談、うわさ話なども取り込める手法故である。
このようなスタイルは同じく「過激さ」を売り物にする「芸能誌」「スポーツ新聞」などにも見いだされるが、女性週刊誌の場合はさらに物語の媒体という性格が他のイエロージャーナリズムよりも強い。女性週刊誌は読み続けていくこと、連載記事として設定されていなくても毎号データを拾い続けていくことによって、「中森明菜」物語なり、「宮沢りえ」物語を読み込んでいくことが読者に期待されているのである(「『聖子』を読むなら女性セブン」女性セブン,1997.2.6,表紙)。もちろん、個別女性週刊誌が提示する「物語」は、誰の、どの側面を強調するかによって差異化されており、対象の扱いにも偏りがあるのだが、石田佐恵子がワイドショーの分析において指摘しているように、ワイドショー、写真週刊誌など他のメディアともリンクしつつ、「現実」の流れに応じて新たにデータが書き加えられていくことによって、受け手が投影する「物語」は様々なヴァージョンの間を揺れながら、終わりなき物語を ──「芸能界」を「引退」しても、死亡しても書き加えは可能でありまた、物語が消失するとすればそれは「結末」というクライマックスなしの忘れられるという形でしかありえないのだから ── 形成していく[石田,116頁]。
こうした形式が、取捨選択された些細なディティール、「ある関係者」「ある目撃者」の「証言」の間を解釈で埋め、「原因」を説明しながら、「激やせ」という言葉で「彼女が痩せている」という状況を一つの読者が知るべき「事実」として提示することを可能にする。そしてこの「事実」は、これまでの「物語」の流れに遡ることによって必然性と説得力を付与されるような事実なのである。例えば「この『激やせ』の原因は、中村勘九郎(40)との不倫や、母光子さん(45)との不仲説、さらに横綱・貴乃花と河野景子さんとの結婚など、容易に想像できる。」(女性自身,1995.9.17,46頁)という表現は、「不倫→自殺未遂事件」「母→母親との強い絆(あるいはその歪み)」「貴乃花→婚約破棄」と過去の物語の流れを参照することが可能でなければ「容易に想像できる」ものではない。スキャンダルとしての「激やせ」した身体は、これら物語の断片の焦点であり、そこからまた語りなおされる結節点なのである。遠近法絵画の消失点のように、それは事物を配置しなおし、単なる並列ではなく一つの空間として奥行きをもって認知させうるのである。
さらにこのような形式上の問題だけでなく、内容的な適合性も考えられる。女性週刊誌の場合、女性誌一般にみられる「やせることへの関心」が、こうしたメディアとしての性格とあいまって「やせること」のセンセーショナルな表現に他ならない「激やせ」という言葉を呼び込みやすくしていたと見ることが出来るだろう。ダイエット方法の紹介はかなりの量にのぼっているが、摂食障害の紹介も1970年代前半というごく初期から行われており、「拒食症患者」の手記(「拒食症から過食症へ 毎晩、菓子パン30個食べてはもどす地獄!」女性セブン,1990.8.2)や逆に極度の肥満で起こったトラブルなどを報じることも他の女性誌より多く、望ましいものとしての「やせること」だけでなく病理としての「やせること」「ふとること」にも興味が向けられていたことも、重要な要因である。
「激やせ」報道は、「やせること」と芸能ゴシップへの強い関心、そして「事実」を解釈でつなげていくメディアと読者の「過激な」手法によって成立したのである。


3.「激やせ」の運用


では、実際に「激やせ」はどのように女性週刊誌上で使われているのだろうか。まず目に付くのは、前章で分けたようにほぼ「拒食症」と同義として使われるネガティブなもの、ダイエット商品の広告やダイエット方法の紹介に使われるポジティブなものである。しかし、この二つのニュアンスは連続したものとして読まれる同じ誌面にともに使われていることに注意しなければならない。「拒食症」と「ダイエット」は「やせること」に関わっているがその評価は逆方向に向いている。そして「激やせ」はその両者を一つの表現のうちに包摂しているのである。「激やせ」はどのように使い分けられ、そして二つの「激やせ」と「拒食症」「ダイエット」はどのような関係にあるのだろうか。
「激やせ」という表現が登場する以前、ネガティブな意味で誰かが極端にやせている、ということがどのように報じられていたかを見てみよう。1990年6月から8月にかけて、つまりおそらく最初の「激やせ」報道がなされる直前に、女性週刊誌上で、女優「長谷直美」の入院が報じられている。そこでの表現は「胃潰瘍」(週刊女性,1990.6.26)「減量死寸前」(女性自身,1990.7.24)「拒食症」(週刊女性,1990.7.24)「ダイエット死」(週刊女性,1990.8.28)である。「減量死」「ダイエット死」はもちろん、「過剰なダイエットの失敗」の表現であるが、これと「拒食症」が互換可能な概念のように結びついており、またここでも死の可能性が強調されている。この対象については、後に「激やせ」という表現でまとめなおされているが(女性セブン,94.6.16)、その後のネガティブな「激やせ」の展開においても「拒食症」の結びつきはつきまとう。ネガティブな「激やせ」は一義的には「拒食症」を指す言葉とまずはみなすことができるだろう。
「過剰なダイエットの失敗」というニュアンスを反転させれば、ポジティヴな意味での「激やせ」につながっていく。「やせる」テクノロジーの効能を謳う意味での「激やせ」(「塗る!寝る!やせる! 浅野ゆう子も使った、インド式激やせジェル!(後略)」女性自身,1995.4.4)であり、またダイエットの成功としての「激やせ」である。とはいえ、ポジティブな意味での「激やせ」は、ネガティブなものにくらべてそれほど多いわけではない。大宅壮一文庫目録「痩身美容」の項で「激やせ」という語を含む記事(ダイエッ方法の紹介など)は、93年2件、94年3件、95年2件、96年1件であるが[大宅壮一文庫編,1996]、同時期の93年から96年にかけての「激やせ」報道は計80件となっている。このポジティブな「激やせ」が言及する身体は、ネガティブなそれとは言及の形式を違えていることに注意しなければならない。ネガティブな「激やせ」の身体は、既に−「激やせ」−した/しつつある記事の中で提示された身体である。対してポジティブな場合に言及されるのは、「やせること」はもはや必要ではなく「拒食症」でもないユートピアとして顕示される女優(前出の例なら「浅野ゆう子」)やモデルの「望ましい」身体ではなく、これから「激やせ」しなければならないものとして呼びかけられる読者の身体に他ならない。
この「激やせ」の二つの側面は、両義的な関係をもっている。
一方で、ポジティブな「激やせ」のイメージとネガティブなそれは乖離している。女性週刊誌の場合、ファッション誌など他の女性誌ジャンルのダイエット特集ほど、希求すべきものとしての「やせること」の提示が入念に行われてはいないが、女性週刊誌のダイエット記事や広告において、やせる前、やせた後の写真およびデータが提示され、要約するならやせてどれだけ幸福になったかを語る商品使用者のコメントが付されることに変わりはない。ポジティブな「激やせ」がなにかすばらしいことをもたらすにちがいないという前提は、やはり共有されているとみることができるだろう(4)
対照的に、ネガティブな「激やせ」、「激やせ」報道で提示される身体は病的なもの、おぞましいものとしてイメージ化されている。先に挙げた「老婆やせ」「ミイラやせ」のような表現は、このイメージを増幅させるものに他ならない。最初の「激やせ」報道において既に「急激なダイエットは『生命』の危険も・・・」(週刊明星,1990.8.30,27頁)とあるように、ことさらに「死」とリンクして語られることも多い。また、食事や買い物というごく私的なような場面の「目撃」が「奇行」として配列されてゆく(「カートにのっているのは驚いたことに山盛りのブロッコリーだけなんです。(略)オカルト映画でいえばりえ母子だけが異次元の存在で、ブロッコリーに取り憑かれている感じでした」女性自身,1996.8.27,278頁)。ここにおいて「やせること」はもはや致命的なものなのであり、望ましいこととして提示されつづける「やせること」がぶきみなものとして反転する。
他方で、二つの「激やせ」は連続性をもつ。「激やせ」報道で提示されるような身体が、様々な技術を駆使して「やせること」を徹底した身体に他ならないのなら、ネガティブな「激やせ」とポジティブな「激やせ」はどこかで接してしまう。実際女性週刊誌でも拒食症は「ダイエット」のトラブル、あるいは「ダイエット」の延長線上にある病として語られ(「ダイエットの危険な落とし穴実例研究集 気がつけば拒食症!?」女性自身,1991.11.26)、あるいは「ダイエット」が拒食症の入り口となること(「『もっとやせなきゃ』には要注意 『理想の体重』はすでに危険ゾーン! 『拒食症』『過食症』恐怖の実態レポート」週刊女性,1995.12.19)が繰り返し指摘されている。それに伴って、「拒食症」にかかりやすい性格類型が提示されたり(「気になるアレを大調査! 拒食症 危ないのは、努力家・痩せ型・顔美人!」(女性自身,1995.12.12)、「拒食症」であるか否か、食行動・生活習慣・ストレスなどをチェックする企画も現れる(「チャートでわかる! あなたは潜在拒食症・過食症」女性セブン,1991.1.1)。また「激やせ」報道そのものに読者への呼びかけが組み込まれる場合もある(「りえ 激やせ真相 拒食症(中略)ひょっとしてあなたも‥‥専門医が解説」週刊女性,1995.8.1)。最後の例のような読者への呼びかけには、「拒食症」が「ダイエット」の延長線上にあり、「ダイエット」が読者にとって普遍的な実践であるはずだという二つの前提の接合を読みとることが出来る。そして「拒食症である」か「ダイエット/拒食症でない」かはとりあえずは医学的指針に手を加えて作成されたテストで該当する項目数によって測られる他はない。両者を隔てるのは質的差異というより量的差異であり、程度問題に過ぎないのである<A NAME="_5">(5)
とはいえ、「ダイエット」と摂食障害は同じものではない。「ジェンダーの病」として摂食障害をとらえ、そこからダイエットへの強迫を促すような性差システムを告発する分析[Orback, 1986-1992]には強力な説得力があるにせよ、摂食障害が精神的な病としてメディアと受け手に捉えられている以上、両者の間には「病」というカテゴリー、この線を越えたら「異常」という境界線が引かれている。もちろんこの境界線は厳密なものでも固定されたものでもなく、文脈に応じて引きなおされ、あるいは抹消されるような線である。だが、この境界そのものが存すること、存してしまうことに変わりはない。
「激やせ」というカテゴリーは、この境界を越えて、「やせること」に関わっている。ポジティブな意味で語られる「激やせ」は「異常」としての「拒食症」ではなく、それと対置される「正しい−効力のあるダイエット」として機能していることは既に述べたように明らかである。そして、2つの「激やせ」の両義的な関係、引き離されそして結びつけられるという関係は、「激やせ」報道における「激やせ」と「拒食症」の関係にも反復される。「激やせ」は「拒食症」ではなく、また「拒食症」なのである。
ネガティブな「激やせ」は、たしかに「拒食症」と互換可能なように織りなされているが、そもそもすべての「激やせ」報道は、対象が拒食症であると断言しているわけではないという一点で、「激やせ=拒食症」と結ばれているわけではない。それは「病名」ではなく一つの状況の表現にすぎない。「激やせ」報道あるいはそれ以前から存在していた「拒食症疑惑」報道の対象のうち、自分が摂食障害者であることを公に認めた例はない。対象の沈黙、あるいは否定の言葉の周りに医師のコメント、過去と現在の写真が配置されているだけなのである(そこで、りえの写真を拒食症など医療情報に詳しい医師に見てもらうと開口一番こう言った。「‥‥診断したわけじゃないから即断は出来ませんが(他の)病気がない限り、このやせようは拒食症の初期症状といえるかもしれません。」女性自身,95.9.19,48頁)。「激やせ」報道は、対象が「拒食症」であると、真−偽の公準に則って事実関係を明らかにしようとしているわけではない。それが行わなければならないのは、新しい切片を加えながら物語を反復し増殖させること、想像をあおりつつ真実らしさを積み上げていくことなのである。それゆえ「激やせ」は対象となる人物の、通常では報道の対象とはならない、あるいは対象が摂食障害者であれば逆に報道すべきではないとされるかもしれないようなレヴェルのプライヴァシーまでひっくるめて「激やせ」状況として配置しなおすことができる。「激やせ」報道が自らを再生産しつづけることが出来るのは、そこで「拒食症」であると断定してはいないというこのわずかな「激やせ」と「拒食症」のずれによってなのである。「激やせ」という表現の使用そのものがこのずれの表象でもあるのだ。
その一方で、「激やせ」報道における「激やせ」は、「拒食症」と「ほぼ」同義のものとして読まれるように機能することもまた明らかである。断言のみを避けて、そこには、「激やせ」前の写真と「激やせ」以後の写真、医師のコメント、「関係者」「目撃者」の証言と、本人の肯定を除く全ての材料が揃っており、そしてそれらを「激やせ」という焦点に向けて配置しなおす「解釈」の線が、あらかじめ読者のために引かれているのだから。
この側面には、前章で述べた「物語」の媒体としての女性週刊誌の役割が深く関わってくる。限りなく「激やせ=拒食症」と機能するような場において「激やせ」というカテゴリーは、対象の身体を透過して問題となっている状況を招いた原因を読み込ませ、「宮沢りえ」物語を再度語りなおすように誘う。ここで提示される「激やせ」した身体を「わけありの身体」と呼んでみよう。「激やせ」した身体においては身体が様々な原因 ── 性格類型、家族との確執の歴史、恋愛の破綻、仕事上のトラブルなどそれぞれ時系列をもつ、それ自体として小さな物語であるような ── の結果招来された「わけありの身体」として設定し直され、女性週刊誌は読者が細部を収集しブリコラージュすることによってその向こうに「激やせ」の「原因」たるべき「不幸」を読みとるように促す。このような過程において「激やせ」した身体のゆがみは精神のひずみに還元される。ここで摂食障害は「拒食症」へ、わかりやすい「不幸」によってもたらされた病に縮減される。この過程こそが、「病」というカテゴリーの境界線を引く過程に他ならない。
特定の身体のまわりに「不幸」を配置し、「精神的な原因」を浮き出させ、対象を「病」「異常」という場に囲いこむという戦略は、同時に「ダイエット」と「拒食症」の間に境界線を引くという実践の一例に他ならない。前述したように、女性週刊誌の「拒食症記事」において「拒食症」は、読者にとって普遍的な実践であるとみなされる「ダイエット」の延長線上に置かれている。「激やせ」報道において、読者は「ひょっとしてあなたも‥‥」(週刊女性,1995.8.1)という形式で、ダイエット記事が読者を「ダイエット」すべき身体として再構成する場面のように、呼びかけられる。つまり、そこでは「太っている」ことと同じく「拒食症」であることもまた読者に均等に起こりうるトラブルとして措定されており、さらにこの呼びかけにおいて「拒食症」は避けられなければならないものとして前提されているのである。しかし「激やせ」が「拒食症」に限りなく近づいていく時、「激やせ」した身体がその「奇行」や「原因」の間に埋め込まれていく過程において、「拒食症」は「病」として「ダイエット」から排除され囲いこまれてゆくのである。「拒食症」は幸福をもたらすはずのダイエットが不幸に転化してしまった事態という意味で、「間違ったダイエット」、「ダイエット」をから道を踏み外して落ちることもありうる「落とし穴」として配置され、正しい「ダイエット」はなすべきものとして温存されるのである。
ポジティブな「激やせ」は「ダイエット」の局面に、ネガティブなそれは「拒食症」の局面に、と二つの「激やせ」が、あらかじめ分断された、達成しなければならないものとしての「ダイエット」と回避されなければならないものとしての「拒食症」にそれぞれ結びつけられ、交わらず反発する軸として対置されているわけではない。ネガティブな「激やせ」と「拒食症」、ポジティブな「激やせ」と「ダイエット」という二つの軸は、連続性を強調するベクトルと分離するベクトルという二つの力の方向によって引きさかれつつ結びつけられているのである。
「激やせ」が表象するものとは、この「拒食症」「ダイエット」の両義的な関係に他ならない。そしてこの両義性こそが、「拒食症」と「ダイエット」を連続したものとして位置づけつつつ、「ダイエット」そのものを病理というカテゴリーから分離し、「汝やせよ」という定言命法を再生産しつづける装置なのである。


4.結論


「激やせ」は、女性の身体が「やせること」の回りに置かれている配置を簡潔に要約している表現だと言えるだろう。この一語のうちに、しなければならないものとしての「ダイエット」と避けるべき「不幸」としての摂食障害のイメージ ──「拒食症」── が表象されているのである。同時に、女性週刊誌というメディアの戦略として見るなら「激やせ」はそれなしでは記事になりえないような事実関係を記事化することを可能にする一つの装置として機能する。
とはいえ、「ダイエット」と「拒食症」は「激やせ」という表現の中で単に一つに結びつけられているわけではない。一方で「拒食症」は「ダイエット」の延長線上にあるものとして、ポジティブな意味で「激やせ」しなければならない、「ダイエット」しなければならない身体と同じくらい均等に読者に起こりうる「不幸」として設定されている。他方で「拒食症である」「拒食症でない」の両極を往還しつつ、「激やせ」報道は「拒食症」に限りなく近づきながら「激やせ」的状況にある人物を「病」のカテゴリーに分別し、ポジティブな「激やせ」/「ダイエット」とネガティブな「激やせ」/「拒食症」を分離し、さらに「拒食症」とのずれを確保することによって言説としての自ら自身と「ダイエット」を無毒化してさらなる言説 ──「激やせ」報道そのものと「ダイエット」という生の権力 ── の再生産をめざすのである。「激やせ」は「病」である「拒食症」と、「しなければならない」ものとしての「ダイエット」を結びあわせつつ、引き離す。
そしてこの運動の中で、「やせる」必要もなく「拒食症」でもない状態としての「正常」な身体は表象されない。それは「やせること」を構成する言説の網の目の中の空白として言い落とされている。「激やせ」報道の中では、ほとんど必ずといっていいほど一対の写真が提示される。「激やせ」以前の、影が消えるためにことさらに顎の線が丸く太ってみえる、下から見上げるアングルで撮られた写真と、正面あるいは斜め上から撮られた、喉に落ちる影を強調した写真である。
ダイエット記事の中には、確かに理想の身体が提示される。それは「激やせ」する必要もなく「激やせ」してもいないという意味で、一見「正常」なものとみえる。しかし、この理想の身体が、読者の身体を「やせる」必要のあるものとして再構成し、「やせること」への普遍的な強迫を導入するイメージとなっているという意味では、すでにそこには「拒食症」が入り込んでいるのである。「拒食症」は、「ダイエット」から排除されつつも「ダイエット」と連続した場所に設定されてもいるのだから。
「激やせ」が表象する「ダイエット」「拒食症」の錯綜した運動は、互いをみずからの中に折り込みあい、「やせること」の強迫は、この閉ざされた回路の中で循環し増幅されていくのである。


【註】


(1)基本的には大宅壮一文庫索引目録および同文庫のデータベースに依拠したが、雑誌という分析対象の性質上、「激やせ」という語を使った資料すべてを確定することは技術的にに不可能であり、以下言及される記事点数・割合等の数字は範囲を限定して示したものを除いて不完全なものであることをご理解いただきたい[大宅壮一文庫編,1996,1997]。
(2) 以下、女性週刊誌での摂食障害イメージを「拒食症(患者)」、精神医学または社会学上のものについては摂食障害(者)と表記する。女性週刊誌における摂食障害は、精神医学の、フェミニズムおよびジェンダー社会学の、あるいはNABAなど摂食障害者自身の言説[斉藤編,1991]とは異なった位相にあるとみなすことができる。「拒食症」は精神医学の言説に対して「ダイエット」との連続性を強調するが、フェミニズム・ジェンダー社会学のように「ダイエット」の社会性という観点はもちえない。そして、「恐ろしさ」を強調することを基本的な責務としているために、「拒食症患者の手記」を引用することはあっても摂食障害者自身の言説とも大きな食い違いを見せている。後述するように、「拒食症」と「ダイエット」の関係は錯綜したものとなっている。
(3)このようなテクストをドロシー・スミスは「事実報告」と呼んでいる。[Smith, 1990, pp.60-80]
(4)女性誌の「やせること」の提示のされかたについては[柄本,1993][加藤,1995]参照。
(5)実際、「摂食障害者」と「ダイエット中の女性」の厳密な線引きは、医学的な指針が治療の場面で設定され、一般でも一応の目安になっているにせよ、きわめて困難である。主観的な定義から接近して、当人が自覚をもっているかどうかに境界を求めようとしても、体重の減少およびその影響がかなり深刻になっても病識をもたない摂食障害者のケースは珍しくなく、逆に、医学的診断を受けたことのない、あるいは医学的基準を満たさない女性でも「摂食障害者」としてのアイデンティティを引き受けうる[浅野,1996]摂食障害者のアイデンティに関する議論については[Saukko,1996]参照。


【参考文献】


朝日新聞社編,1994;『朝日キーワード94−95』,朝日出版社.

    はやった言葉の解説本。あてにはならんがないよりまし

浅野千恵,1996;『女はなぜやせようとするのか ── 摂食障害とジェンダー』, 勁草書房.

    いやしくも日本語で摂食障害の社会的分析を考える者なら読んでいるにちがいない基本文献

別冊宝島編集部,1997;『芸能界スキャンダル読本』,宝島社.

    宝島にしてはつまんないけど買ったのでつい

柄本三代子,1993;「語られている身体 ── ダイエット記事にみる『理想』と『非理想』── 」,年報社会学6号,95-106頁.

    バルトを使ってananのダイエット特集の記号論分析

稲垣吉彦,1989;『流行語の昭和史』,読売新聞社.

    朝日キーワードみたいなもの。レンジはもっと広い

石田佐恵子,1996;「メディア時代の<現実>探しゲーム」,岩波講座現代社会学『メディアと情報化の社会学』, 157-176頁,岩波書店.

    よしのの志向とわりとネタかぶっている石田先生。一度はお目にかかりたいもの。よみやすくて面白い一発。

加藤まどか,1995;「『きれいな身体』の快楽 ── 女性誌が編み上げる女性身体」,岩波講座現代社会学『ジェンダーの社会学』, 151-166頁,岩波書店.

    ポパイみたいな男性向け雑誌との比較がはいってます

メディア・リサーチ・センター株式会社,1996;『雑誌新聞総かたろぐ1996』,メディア・リサーチ・センター

    雑誌の概要説明するにはたぶん外せない基礎資料。しかし通年版でCD-ROM出してほしい

大宅壮一文庫編,1996;『大宅壮一文庫雑誌記事索引総目録1988-1995 件名編』,紀伊國屋書店.
大宅壮一文庫編,1997;『大宅壮一文庫雑誌記事索引総目録1988-1995 人名編』,紀伊國屋書店.

    アナザーなインデックスがなんとも邪魔だが一般雑誌の記事索引ってここしかないのよ。ちなみに京王線八幡山にある本館には90年以降からリアルタイムで入力されたデータベースがあるけど、なんとタイトル検索できねえっつうトホホなもの。97年2月の時点で、利用料金は10件閲覧込みの入館¥500、以後閲覧10件ごとに¥500、コピー一枚¥170。TEL;3303-2000

Orbach, S,1986;Hunger Strike: Anorexia as a Metaphor for our Time,鈴木・天野・黒川・林(訳),『拒食症』,新曜社,1988.

    イギリスウーマンセラピーの大御所による著作。社会への罵倒とか腰座ってます。これも基本文献ざます。

斉藤学編,1991;『カナリアの歌』,どうぶつ社.

    日本の摂食障害者自助グループNABAの「いいかげんに生きよう新聞」抄録。ひっじょーに重要な資料に関わらず、現在入手困難。ちくま文庫でなんとかしてくれ

Saukko, P,1996;'Anorexia Nervosa: Rereading the Stories that became me', N. K. Denzin ed. Cultural Studies: A Research Volume, pp.49-65, JAI Press.

    ちゃんと読んでないんですけどね、他の論文も面白そうです

Smith, D. E.,1990;The Everyday World as Problematic, Northeastern University Press.
Smith, D. E.,1990;Text, Fact, and Feminity, Routledge

    よしのが社会学にはまりこんだきっかけである「Kは精神病だ」という論文を書いた人。エスノメソドロジーという学派でテクスト分析をしている。邦訳は「Kは」が『エスノメソドロジー』・せりか書房に入っているだけ


矢崎葉子,1992;『誰がダイエットを始めたか?』,太田出版.

    anan変遷の歴史など。フリーライターという人種に属する人らしいけど、ちゃらいインターフェースにかなり重要な指摘がのっかっている。女性週刊誌についてもまとめているので便利


今回は使わなかったけど中島梓『コミュニケーション不全症候群』(ちくま文庫)も摂食障害を扱っています。他にも色々あるので近日中になんとか摂食障害本書評ページをアップする予定です。(といいながら月日は流れ・・・)
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