吉野ヒロ子;1994;「ポルノグラフィー──『女性』カテゴリーとフェミニズム──」「ソシオロジカル・ペーパーズ」(第三号) yoshinoh@vanilla.freemail.ne.jp https://members.tripod.com/~yoshino/eigyou.html
ポルノグラフィおよびそれに異議申し立てしようとする言説の領域において、カテゴリーとしての「女性」と、現実の女性は不即不離に立ち現れる。その二人の「女性」/女性の結びつきの不透明さが、ポルノグラフィ反対運動における理論的な不幸ではなかったのだろうか、という仮定から、ポルノグラフィおよび反ポルノ運動の言説を考えてみたい。 80年代に勃興した日本でのフェミニズムは、上野千鶴子、江原由美子ら女性アカデミシャンのマスメディアへの露出と、それとはほとんど乖離した運動、という二極分裂した形で進行した。「行動する女たちの会」に代表されるポルノグラフィー反対運動は、日本で展開された理論よりもむしろ、アメリカのアンドレア・ドゥオーキン、キャサリン・マッキノンら、後に、ポルノグラフィの検閲の是非をめぐって、検閲派として分類されるようになるラディカル・フェミニストの影響が強い。(1) まず、彼女らの理論の骨格をみてみよう。
[Mackinon:1993] ロビン・モーガンによるもっと短いスローガンをあげてもいいだろう。「ポルノは学習、レイプは実践」。法学者であるマッキノンは、実際のレイプ裁判において、多くの被告がポルノグラフィを多数所有し、またそこに書かれていること──例えば女性の膣にナイフを挿入するような俗流フロイト主義まるだしのショッキングなことまで──を被告が実際に行っている、という事例を引用して、現実に行われる犯罪と、虚構経験であるポルノグラフィの消費の結び付きを強化している。 日本の論議では、これほど「男性」なるものを暴力的なものとして強調はしないが、ポルノグラフィが女性という概念を貶める性差別であること、それが性暴力にも結び付いている、という問題意識において枠組みを共有している。確かに、「女性であること」を理由に性的な暴力(重いものであれ比較的軽いものであれ)にあったことのない女性はごく少数派であろうし、以前なら被害にあった、あるいはあっていること自体を抑圧しなければならなかったことを考えれば、このような暴力に対する怒りを表出するひとつの方法として、この図式が果たしている機能は一定評価することができるだろう。 しかし、このようなポルノグラフィ論には、根本的な、何を、誰がポルノグラフィとして定義するかという問題を除いても、いくつか問題があることも否めまい。 まず、ポルノグラフィの上に書かれた欲望と、男性あるいは女性読者の、現実の他者に向けられる欲望をそのまま同一視していいのか、という問題である。レイプ犯がポルノグラフィを消費していたとしても、すべての男性がレイピストではないことと同様に、すべてのポルノグラフィの読者が性犯罪を犯すわけではない。これは単に性犯罪を犯すだけの条件(機会、能力、あるいは心理的なもの)が整うかどうかという問題ではなく、どのようにポルノグラフィを使っているか、という問題である。実際の受容の質的差異を知ることは不可能だが、すべてのポルノグラフィ消費者を直接、潜在的な性犯罪者として告発することは不当だろう。実際に女性に性的な暴力をふるうことと、テレビ画面や紙の上で「女性」の「快楽」〜〜その多くは「実際に」行われれば暴力にほかならないものだが〜〜をみることは、無関係であるとは言い切れないにせよ、単純に後者を前者の代理として考えることは性急すぎるだろう。(2) もう一つの問題は、「女性」「男性」カテゴリーの使用のあいまいさである。「男性」は支配する、「女性」は服従する、という図式は、経済・政治的なものであれ、性的なものであれ、確かに多くの社会的な状況において取り出しうるものかもしれない。性暴力の多くが、ポルノグラフィックな「女性」カテゴリーを個別具体的なある女性に押し付けるという構成において現れるとしよう。ここでは女性は、他の様々なアイデンティティや社会的なコンテクストとかかわりなく、「女性」であるがゆえに、暴力をふるわれる。では男性は、どうして暴力をふるうのか。たしかに、ある女性に「女性」なるものを見いだすのは、ある男性であろう。しかし、ある男性がそうすることによって「男性」らしく振る舞おうとするのだ、という時、この図式においては、彼もまた「男性」にならなければならないと思い込まされているがゆえに、暴力をふるうことになってしまうのではないだろうか。つまり、文化決定論的な、cultural dopeされた形で主体を提出する限り、論理上、告発されるべき個人は、規範、通念という曖昧模糊としたなにものかに回収されて消失してしまう。 このようなジェンダー決定論は、具体的な女性/男性を無力化し、告発されるべきものを「文化」という、法廷には立たせられないなにものかにしてしまう。「女性」「男性」は、社会の成員の集合が「社会」ではないのと同じく、女性の成員、あるいは男性の成員全体ではない。カテゴリーとしての「女性」「男性」は、そのものでは具現化しないが、しかし、誰にでも適用され解釈の道具立てとして利用されるものである。(3) ポルノグラフィの生産−消費のメカニズムは、この「誰」でもないが、誰にでも適用できるジェンダー・カテゴリーを資源としている。フェミニズムにおけるポルノグラフィ批判は、「女性」カテゴリーの性差別的な汚染を問題にしてきた。しかしこのようなタイプのフェミニズムは、逆にアイデンティティ・カテゴリーと主体のパラドックスにからめとられてしまっているのである。では、ポルノグラフィのメカニズムとはどのようなものなのだろうか。 ポルノグラフィは、愛などの感情、あるいは妊娠、性感染症のような、性交の深刻な結果と、そもそもなぜ性交するのか──性的快楽を欲する根源への問いが言い落とされることが、特徴として知られている。すなわち、ポルノグラフィとは、その結果も、由来も遮断された、性的快楽の享受だけが充満する空間である(4) しかし、性的快楽も単に肉体から「本能的に」わき出てくるものではなく、文化的な構成物である以上、性的快楽を支える装置というものが必要とならざるをえない。では、ポルノグラフィはどのような構成を取っているのだろうか。 ラカン派批評家ブラッシャーは、ポルノグラフィの言説の構造を次のように分析している。[Bracher:1993](5)
さらにこう付け加えてもよいだろう。このような構造をもつポルノグラフィは、具体的なある女性、ではなく「女性」というカテゴリーにかかわるものである。レイプを扱ったポルノグラフィを好む人間のほとんどは、実際にレイプされる/することを欲望しているわけではない。ポルノグラフィに登場する「女性」は、たしかに映像作品ならある女優であるし、ポルノ・コミックや小説ならばあるキャラクターとしてその表現技法に沿って具体的に造形されている。が、任意の女性が問題になっているわけでは決してない。 たとえば、アダルト・ビデオでは、普通は半年、どれほど売れた女優でも多くは長くて3〜4年で「引退」し、一作のみで消える「女優」もまた多い。アダルト・ビデオのような典型的なポルノグラフィ消費の空間において、問題となるのは固有名をもつある女優ではない。(1)で性的快楽を望んでいる、とされるのは具体的な女性ではなく、カテゴリーとしての「女性」なのである。しかし、カテゴリーとしての「女性」、あるいは「女性」一般なるものは、もちろん表象不能である。それが暫定的に顕現する──マッキノン、ドウォーキンら視点にそえば顕現させられたように思いなされる場所が、ある具体的な女性の身体にほかならない。それゆえに、フェミニズムは、具体的な性暴力だけではなく、「女性」の表象、社会通念を問題にしてきたのだ。 もちろん、カテゴリーとしての「女性」はポルノグラフィにかかわるものだけではなく、様々な社会的視点から、相反する「女性」像が書き込まれうる。曰く母性、曰く娼婦。フェミニズムが問題にしてきたのは、このようなアンヴィバレントな、しかしフェミニズムの観点からいうなら「『男性』による『女性』の支配」という点では一貫している「女性」像である。が、そこで提出された「服従させられた」女性像もそのカテゴリーの一つであり、ポルノグラフィがその性的快楽の空間におけるカテゴリーを利用しているのと同様に、ポルノグラフィ批判も、それ固有の女性カテゴリーを運用する。どちらも、これが「真の(唯一なる)」女性である、として「女性」なるものの真理を所有しているかのように振る舞う。しかし、「真の」女性はもちろん存在しえない。それは、社会における女性の成員全員でもないし、錯綜する社会空間それぞれにおける「女性」というカテゴリーの集合でもないのだから。 フェミニズムは確かに「女性」への暴力への異議申し立てとして始まり、それなりの成果を挙げてはいる。しかし一方で、新しい「女性」カテゴリーとしての権力性からイノセントなわけではない。カテゴリーは、サブカテゴリーに分岐しうるとしても、常に単一のものとして扱われる。アイデンティティの闘争とは、まずアイデンティティ・カテゴリーに何を付与するかという解釈の闘争にほかならない。「服従させられる/がゆえに解放されなければならい」女性イメージは、一方で、たとえばレディース・コミックの読者を簡単に「偽りの」女性として定位し、「啓蒙」の対象として遡及的に指し示してしまうのだ。あたかも、ポルノグラフィが、「性的快楽を与えられることを常に望んでいる女性」と背反する女性を、「本当の−快楽」を知らない、それゆえに「教え」なければならない女性として書き直してしまうように。
ポルノグラフィとそれを批判する言説は、共に同じ循環の上に成立している。カテゴリーとしての「女性」「男性」と、固有名をもつ彼女/彼あるいは「私」の上に。「『女』というものはこういうものなのだから、『彼女』もこうなのだ」「『彼女』はこうなのだから、『女』というものはやはりこういうものなのだ」というように、一方を他方に参照し根拠づけあう形で、カテゴリーと主体は互いに資源として循環する。 ポルノグラフィという領域に関しても、カテゴリーというものの性質上、ポルノグラフィックな「女性」カテゴリーは原理的にはすべての女性にある属性を帰属させることを可能にする仲介の点として作用する。ポルノグラフィ批判はポルノグラフィの上の女性像が、「女性」カテゴリーを媒介にして自らの身体に跳ね返ってくることへの不快感と恐怖が、それはポルノグラフィ批判を続ける女性のみが感じる根拠のない恐れとは言えないのだが、その根底にあるといえる。しかし、ポルノグラフィはあくまで「女性」というカテゴリーを、どこにもいないものを巡る言説なのだ。ポルノグラフィへの嫌悪感を読者はなかなか理解することができない。彼がしていると思っていることは、具体的な誰かへの「暴力」ではないのだから。 そのようなポルノグラフィの消費空間に対して、70年代後半以来、フェミニズムは、具体的な女性への暴力を足掛かりに、「女性」への暴力として告発してきた。特にセクシャル・ハラストメント、デート・レイプが犯罪として概念化され、少なくとも異議申し立てをする道が開かれたことは、評価できるだろう。しかし、「服従する/させられる女性」というカテゴリーが、逆に、女性の「正しい」アイデンティティのタイプとして──とはいえ、そこでは女性がいかに「歪められている」かについてもっぱら論じられ、積極的な「新しい」女性像としては女性=母性のひとつのタイプに過ぎないようなエコロジカル・フェミニズムが一般には多くの賛同者を引き付けてしまったのだが──新しい抑圧として機能してしまったことは見逃してはならないだろう。たとえば、女性の「反動的な」セクシュアリティを抑圧する、という形で。 フェミニズムは、アイデンティティ・イメージの固着をいかにすり抜けつつポルノグラフィを分析し、運動を広げていくか、という問いに直面している。同時に、セクシャリティの問題は、優れて社会的な問題でありながら社会学であまりとりあげられていない領域である。今後の課題として、ジェンダー・カテゴリーの運用の構成、あるいはポルノグラフィにおける読書行為の分析の必要を挙げておきたい。
註 (1)日本においても、「有害コミック問題」(1990年前後)において、コミックの性描写規制の理由の一つとして「女性を貶めるものであり、性差別である」ということが、当時流行していたフェミニズムの論議を引用する形で言われていた。もっとも、船橋邦子、「行動する女たちの会」らは国家による検閲には一貫して反対していることは付言しておきたい。[船橋:1990][行動する女たちの会:1990、1991] (2)もちろん、ポルノグラフィ表現を性差別として告発することはまた別である。 (3)もっとも、フェミニズムにおけるジェンダーの位置付けがすべてこのように固定されたものではない。例えば、ダナ・ハラウェイ、ジュディス・バトラーは、それぞれ異なった問題関心において、ジェンダーを文化的構成物として喝破し、告発するような主張において、ジェンダーを人間の「属性」として主体から切り離し作り替えることができるように扱いながらも、それでも「人間」というカテゴリーが「私」の本源として温存されていることを批判している。[Haraway:1989][Butler:1990]また、日本では江原由美子がジェンダー本質論は避けるべきであることを強調している。[江原:1991] (4)「にっかつロマンポルノ」のように社会的なコンテクストを担い、性的快楽の意味づけを重視する、一般に「ポルノグラフィ」と呼ばれるものも存在するが、ここでは後述するような、性的な空間の外からの意味づけを最大限に言い落とし、匿名性と反復性を最大の特徴とするものに限定する。 (5)ポルノグラフィを消費するのは必ずしも男性だけではない。女性が男性向けのポルノグラフィを書く、あるいは読む、ということも十分考えられるし、また日本における女性向けのポルノグラフィの代表であるレディース・コミックは市場として80年代後半以降急成長を遂げ、なおも拡大しつづけている。(ヨーロッパなどでは、日本にも翻訳されはじめた女性向けの「官能」小説が流通している。またドウォーキンら検閲派と非検閲派の論議を通じて、フェミニストの手による、特にレズビアン向けの「エロティック」な小説なども書かれている。)これらポルノグラフィへの女性の消費者としての参与のメカニズムや、そこにおける欲望は、勿論男性のそれを単に反転させたものではないだろう。藤本由佳里は、性的な魅力という資本の効力がとめどめもなく強調されていることが大きな特徴となっていることを指摘している。つまり、性的快楽がその固有の空間に封じ込められている男性ポルノグラフィとは対照的に、性的欲望は主人公の生活、人生を一変させるような機能をもたされていると言えるだろう。人生を一変させられるのは必ずしも女性主人公には限らず、男性主人公である場合も散見される。この図式に古典的な少女マンガの図式〜〜「男性」による承認、「かわいらしさ」という価値の普遍性〜〜を読み取るのは簡単だが、少女マンガがそうであったように、レディース・コミックもまた一概に、例えば「抑圧」の結果として評価することは難しい。[藤本:1992][有満:1991] また、男性ポルノグラフィがアダルト・ビデオ、あるいは雑誌のグラビアなど映像を主要なメディアとしており、コミックはむしろ少数派であることと、女性ポルノグラフィがコミック、小説など描かれたもの、書かれたものを中心としていることは、何を意味するかはとにかく今のところ重要な相違であろう。 (6)ブラッシャーはこの3つの特徴を(1)を「現実界」、(2)を「想像界」、(3)を「象徴界」というラカンの主体の構造論的な要素の概念に割り当てているが、ここでは扱わない。興味のある方は[石田:1992]などを参照されたい。また、「象徴的な他者」という概念は、ブラッシャー自身は「社会」という言葉で言い換えいるが、大澤真幸の言う「第三者の審級」[大澤:1988]とほぼ考えていいだろう。 参考文献(翻訳は翻訳年のみ表記) 有満麻美子 1991:「欲望することへの欲望〜〜レディース・コミックのアレゴリー」 Imago2-10 青土社 Bracher,M 1993:“Lacan,Discourse,and Social Change" Cornell University Press, New York Butler,J 1990:“Gender Trouble" Routledge 江原由美子 1991:「上野千鶴子氏の『文化主義批判』を批判する」 現代思想19-6 青土社 Mackinon,C,A 1993:『フェミニズムと表現の自由』 加藤春恵子訳 明石書店 藤本由香里 1992:「女の、欲望のかたち──レディースコミックに見る性幻想」『ニュー・フェミニズム・レビュー』3号 学陽書房 船橋邦子 1990:「ポルノ文化と性暴力」 現代思想18-1 青土社 石田浩之 1992:『負のラカン──精神分析と能記の存在論』 誠信書房 行動する女たちの会 1990:『ポルノ・ウォッチング』 学陽書房 行動する女たちの会 1991:「問われるべきマンガの性差別表現」『有害コミック問題を考える』 創出版 大澤真幸 1988:『行為の代数学──スペンサー=ブラウンから社会システム論へ』 青土社 |