資料や作品を読んでてなにやら気になったフレーズをぱちってきました☆(最終更新01.7.11)


天の猟犬──ゴドウィンからドイルに至るイギリス小説のなかの探偵──

Ousby, Ian(東京図書・1976-1991・159頁)
どの場合も、たどりついた結論はそれなりに筋が通っている。しかしどれも、その人が他人を見る視点に限りがあることを物語っている。表層的な風貌とか、自分が抱く期待とか、はては単に出来事の全体を知らないがためという理由で判断を誤っているのだ。

『月長石』について。各登場人物が行う事件の解釈実践のすれ違いぶり。 このタイプの小説ってやっぱ月長石が最初なのかも……

[2001.6.23入力]

ねじれた家

CHRISTIE, Agatha(角川書店・1949-1957・207頁)
「これこそ、ほんとに悪夢よ。よく知っている人たちのなかを歩きまわり、その人たちの顔を見る──と、突然、顔が変わってしまうの──もうそれは、知ってる人じゃない──見知らぬ人、それは残忍な見知らぬ人なのよ…」


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本格ミステリーを語ろう![海外篇]

芦辺拓・有栖川有栖・小森健太朗・二階堂黎人(原書房・1999・186-187頁)
*『災厄の町』 有栖川◆(略)それにも増して、クイーンにふるさとができたことに意味があるように思う。砂漠を旅する探偵にとってのオアシス。そこでもばたばたと人が死ぬ、探偵の罪を背負い込んだようなふるさと。


[2001.1.15入力]

ABC殺人事件

CHRISTIE, Agatha(創元推理文庫・1935-1959・176頁)
「私はよく思うのだが、殺人事件は偉大な結婚媒酌人だよ」


[2001.1.15入力]

本格ミステリーを語ろう![海外篇]

芦辺拓・有栖川有栖・小森健太朗・二階堂黎人(原書房・1999・242-243頁)
カーの密室講義が記されるまでは、ミステリーのトリックというものは、個人個人の作家の、その場その場の思いつきにすぎなかった。着想や発案というものが、一冊の小説の中だけで完結していたわけである。ところがそれを、カーは密室トリックに注目して集積し、詳細に検討したあげく、方法論的に分類してみせたのだった。これにより、ミステリーに用いられるトリックには、原理や法則があることが明確になった。その結果、トリックにおけるバリエーションというものの考え方が一般化し、逆に、オリジナリティの尊重にも繋がる効果があった。 *1935年『三つの棺』


[2001.1.15入力]

夜明けの睡魔

瀬戸川猛資(早川書房・1987・122頁)
ホームズ物自体が謎ときミステリの装いを凝らした伝奇ロマンである、といえるかもしれない。 *ホームズ物について 「事件の動機が、過去に異郷で起こった出来事の中にあり、結末でそれが語られる」作品が多い。 『緋色の研究』『四つの署名』『恐怖の谷』「ボスコム渓谷の惨劇」「グロリア・スコット号」「まがった男」「白面の兵士」「ブラック・ピーター」 いずれも、本質は伝奇小説。


[2001.1.15入力]

死者はよみがえる

Carr, Jhon Dickson(創元推理文庫・1938-1972・363頁)
「どうやらひどいことになってきたようだね」と彼はいった。「当人と話をしているときですら、相手が何を考えているのかわからないときているんだから。いったいこんな状態をどう名づけたらいいのだろう?」 食卓の上座からフェル博士がグラスを下に置き、こう託宣した。 「わしなら、そういうのを推理小説[ディテクティブ・ストーリー]と呼ぶね」


[2000.12.13入力]

死者はよみがえる

Carr, Jhon Dickson(創元推理文庫・1938-1972・294頁)
相手は偶然にまかせているだけなのに、こちらがそういう策略を弄していたら、何から考え始めたのかわけがわからなくなってしまうほどの空中楼閣をきずき上げてしまうことになります。


[2000.12.13入力]

死者はよみがえる

Carr, Jhon Dickson(創元推理文庫・1938-1972・286頁)
外部の事態が犯罪者に影響を及ぼしたのではいけないのだ。犯罪者が外部の事態に影響を及ぼさなきゃいけない。


[2000.12.13入力]

ミステリーの仕掛け

大岡昇平編(社会思想社・1986・12頁)
普通の場合、探偵は進行係以外の何物でもない

「犯人当て奨励」(大井廣介 1951)

[2000.12.2入力]

死者はよみがえる

Carr, Jhon Dickson(創元推理文庫・1938-1972・286頁)
「しかし、そんなことが日常生活の機構だとみなしていたとしたら、人をぞっとさせるにきまっている」


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髑髏城

Carr, John Dickson(創元推理文庫・1931-1959・322頁)
「じゃ、はじめるわよ。よくって、みなさん?」


[2000.12.2入力]

死者はよみがえる

Carr, Jhon Dickson(創元推理文庫・1938-1972・201頁)
「これはすべての小説書きの持っている病的傾向なのでしょうがね。小説の法則に従えばただ一つの解決しかなく、ただ一人の犯人しかないはずなのです! ところが、それは人工的な解決を推測してみるやり方にすぎないだけではなく、強力な推論でもあります。」


[2000.12.13入力]

髑髏城

Carr, John Dickson(創元推理文庫・1931-1959・65頁)
「ぼくはただ、真実を述べたいだけなのだ。説明はへたかもしれないが、ぼくの言うことにまちがいはない。いいですか、バンコランさん。こんな恐ろしいことって、この世にあるでしょうか。ひとつ屋根の下に、ぼくたちといっしょに暮らしている者のうちに、マイロン・アリソンの殺人犯人がいるのです。ぼくたちとともに、食事をし、酒をノミ、笑いながら語り合っている者が、兇悪無残な殺人鬼なんだ。そう考えてくると、だれにしたって、ふたりきりになるのがこわくてたまらない。いつ襲いかかって、ぼくの首を締めにこぬものでもない。いちおうだれでも。うたぐってかからねばならない。たえず背後に気を配っていなければならぬ……長年のあいだ、たがいに知りあった仲の人間が、そんな恐ろしいことをしたのかと思うと、身震いしないではいられないのだ──」


[2000.12.2入力]

ABC殺人事件

CHRISTIE, Agatha(創元推理文庫・1935-1959・130頁)
「(略)今までのは、いつも内部から手をつけるという回り合わせになっていた。大事なのは被害者の生活で、主要な点は『誰がこの死によって利益を受けるか? 彼のまわりの人間がこの犯罪を犯すのに、どんな機会があったか?』ということだった。いつも『内輪の犯罪』というやつだった。(略)」


[2000.12.2入力]

殺人芸術

鈴木幸夫編・訳(荒地出版社・1959・217頁)
無論批評家達の悉くがこれら規約の普遍性なり、一般への重要性なりに賛意を表しはしないだろう。だが私が思うに、所謂「ファン」と称すべき人々の大多数は、探偵小説を充分満足に楽しむ上には、これらの原則、あるいはともかくも私が挙げた条件の如きものが、是非とも考慮に入れられる必要があるということを認めるに違いない。(略)

「探偵小説十戒」(ロナルド・ノックス)

[2000.11.30入力]

殺人芸術

鈴木幸夫編・訳(荒地出版社・1959・216頁)
だからして我々が探債小説には法則があるといっても、それは詩を作る上に法則がある、というそういう意昧での法則のことではなく、普通の英国人にとっては遥かに印象的な対象で、あるにちがいないのだが、クリケット競技に規則がある、という意味での規則をいうのである。「アンフェア」な探偵小説を書く人は、ただ趣味の上で過ちを犯したといわれるばかりではない、その人はファウル・プレイを行ったのであって、審判員は彼に競技場からの退去を命ずるのである。

「探偵小説十戒」(ロナルド・ノックス 1929年)

[2000.11.30入力]

殺人芸術

鈴木幸夫編・訳(荒地出版社・1959・215頁)
だからして、結局探偵小説というものは、他のいかなる小説とも根本的にその型を異にしていることになる。普通の小説では、「何事が起こるだろうか?」という点に興味が集中するわけである(略)。ところが探偵小説になると、「何事が起こったのか?」ということに主たる興味が集まるわけで、順序の転換と云わなければならない。

「探偵小説十戒」(ロナルド・ノックス 1929年)

[2000.11.30入力]

殺人芸術

鈴木幸夫編・訳(荒地出版社・1959・213頁)
探偵小説というものは、その主たる興味がミステリーの解決におかれていなければならない。そして物語の初期において、そのミステリーの主要成分が明りょうに読者に提示せられ、かつそのミステリーたるや、充分に満足させられるよう仕組まれていなければならないものである。

いわゆる「ショッカー」との分界線を引くために、だそうな 「探偵小説十戒」(ロナルド・ノックス 1929年)

[2000.11.30入力]

殺人芸術

鈴木幸夫編・訳(荒地出版社・1959・177頁)
 芸術と呼ばれるものすべての中には贖いの要素がある。(略)  だが、これらのみすぼらしい街路を、一人の、彼自身はみすぼらしくもないし、薄汚くもないし、恐れてもいない男が歩いてゆかなければならない。云々

「単純な殺人芸術」(レイモンド・チャンドラー 1944)

[2000.11.30入力]

殺人芸術

鈴木幸夫編・訳(荒地出版社・1959・203頁)
ブリッジのゲームにおいて、欺瞞行為が赦されないと同様、探偵小説においても、作者はぺてんやまやかしの手段に出ることを認められない。(略)したがって、探偵小説の作法には、明確な法則が存在する。おそらくは成文化されてはいないであろうが、きわめて強固な制約が、おのずから存在していることは疑うことができない。現代における、尊敬すべき、そしてその尊敬にふさわしい探偵小説作家は、ことごとくこの法則に乗っ取って筆を進めているのである。

「探偵小説作法における二十則」(ヴァン・ダイン 1928)

[2000.11.30入力]

殺人芸術

鈴木幸夫編・訳(荒地出版社・1959・197頁)
殺人の現実派の作家が描く世界とは、ギャング達が一国あるいは都市さえも支配することが出来るような世界であり、淫売宿の経営で儲けた人間たちの所有するホテルや、アパートや、有名なレストランのある世界であり、銀幕のスターが強盗団の情報屋となることもあり、廊下に立っていた人好きのする男が大恐喝団のボスであったりする世界である。

「単純な殺人芸術」(レイモンド・チャンドラー 1944)

[2000.11.30入力]

殺人芸術

鈴木幸夫編・訳(荒地出版社・1959・177頁)
小説は、それがいかなる形態のものであれ、常に現実的であることを目指してきた。

「単純な殺人芸術」(レイモンド・チャンドラー 1944)

[2000.11.30入力]

殺人芸術

鈴木幸夫編・訳(荒地出版社・1959・113頁)
 探偵小説というジャンルにはっきりした性格を与えている要素の一つはファンタジー──というよりむしろ、ファンタジー<夢想>とリアリティー<現実性>を並べて両立させること──である。    「探偵小説は、お伽噺が子供たちにとって真実に感じられるのと同じ意味の真実さを大人に感じさせるように出来ていなければいけない」(キャロライン・ウェルズ)

「探偵小説──その存在意義」(C・D・ルイス 1942)

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殺人芸術

鈴木幸夫編・訳(荒地出版社・1959・113頁)
カフカの「審判」は、芸術作品と探偵小説との違いを示す今一つの啓発的な実例である。探偵小説では、犯罪がなされたことは確実であり、一時的にその罪が誰に着せられるかが不確実なのである。それが判明すると他の人間はみんな無罪が確定する。ところが「審判」の場合は、有罪であることはわかっていても、犯罪の方が不確実なのだ。

「罪の牧師館<探偵小説についてのノート>」(W・H・オーデン 1948)

[2000.11.30入力]

殺人芸術

鈴木幸夫編・訳(荒地出版社・1959・106頁)
 探偵小説の社会は一見無実に見える個人によって構成された社会である。すなわち、彼等の個人としての審美的関心と、全体への倫理的責務との間に争いがないのである。殺人は分裂の行為であって、それによって潔白は失われ、個人と法律とは互いに対立するものとなる。殺人者にとってこの対立は完全に現実である(逮捕されて罰せられることに同意するまで)。容疑者の場合、それはたいてい見かけだけである。  しかし見かけだけといっても、ある程度本当らしさがなくてはならない。(略)容疑者たちは何か後ろ暗いところがなくてはならない。

「罪の牧師館<探偵小説についてのノート>」(W・H・オーデン 1948)

[2000.11.30入力]

殺人芸術

鈴木幸夫編・訳(荒地出版社・1959・87頁)
探偵小説の本質的美点の第一は、それが現代生活の詩的感覚を表現した最初で唯一の通俗文学であるという点にある。

「探偵小説の弁護」(G・K・チェスタトン 1902)

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殺人芸術

鈴木幸夫編・訳(荒地出版社・1959・87頁)
近代文学の課題は人間性である。それを忘れては、いかなる小説も成り立たない。(略)最近、ようやく、探偵小説も同時に人物と社会を写す小説たるべしとする、ヴィクトリア朝時代の観念に復帰すべきだとの意見が散見し始めた。

「探偵小説の本質と技巧」(ドロシー・セイヤーズ 1928)

[2000.11.30入力]

殺人芸術

鈴木幸夫編・訳(荒地出版社・1959・100頁)
殺人がユニークなのは、その被害者が殺されてしまうという点であって、そのため社会が被害者を代理して、その者の利益のために賠償を要求したり、赦しを与えたりすることが必要になる。すなわち殺人は社会が直接関係をもつ唯一の犯罪である。

「罪の牧師館<探偵小説についてのノート>」(W・H・オーデン 1948)

[2000.11.30入力]

殺人芸術

鈴木幸夫編・訳(荒地出版社・1959・84頁)
作の秘密を解く鍵は、あらかじめすべて読者の前に明らかにしておくべきだというのが、ポオの樹立した法則であるが、それをドイルは、必ずしも厳格には遵守していないことである。つまり、シャーロック・ホームズは、彼が推理してつかんだ結論を先に述べてしまって、そのあとではじめて、その帰納の材料としたデータを並べ立てていることが多いのである。

「探偵小説の本質と技巧」(ドロシー・セイヤーズ 1928)

[2000.11.30入力]

殺人芸術

鈴木幸夫編・訳(荒地出版社・1959・72-73頁)
おそらく現代人の心には、ウエディング・ベルの音に終わる感傷的な小説よりも、探偵小説の愉快な皮肉の方が面白いにちがいない。なぜなら、間違ってもらっては困るが、探偵小説は表出の文学ではなく逃避の文学だからである。我々が、家庭的な不幸の物語を読むのは、それが我々にも起こる種類の事柄だからなのだが、そうしたものがあまりに痛いところに触れるようだと、我々はミステリーや冒険ものへと飛躍してしまう。それなら我々の身には起こる心配のない事柄なのだから。

「探偵小説の本質と技巧」(ドロシー・セイヤーズ 1928)

[2000.11.30入力]

髑髏城

Karr, Jhon Dickson(・1931-1959・322頁)
「じゃ、はじめるわよ。よくって、みなさん?」


[2000.11.22入力]

三角形の第四辺

Queen, Ellery(早川ポケットミステリ・1965-1969・245頁)
「そればかりか、純文学作家が時代の性向を捕獲するのに少々時間がかかるのに反し、探偵小説はしばしばもっと直接的、直裁的に時代を反映するし、ときには起こりうべき事柄をも予想もする」

解説に引用された作家活動40周年(1969)インタビュー(パブリッシャーズ・ウィークリー)の引用。解説者名不明。

[2000.10.4入力]

どんどん橋、落ちた

綾辻行人(講談社・1999・頁)
人間が描けていない! ──そうだ、まさにこれだ。

過去の自分?がもってきた無理やりパズラー小説の感想…

[2000.10.3入力]

E・A・ポウを読む

巽孝之(岩波書店・1995・3頁)
いうまでもなく、当時はまだ「推理小説」(detective fiction)という語はなかった。ポウ自身は自分の推理小説系統をむしろ"ratiocinative tales"の名で呼んでいたのである。ところが、ポウそのひとはこのサブジャンルの創設者としてのみ知られることを忌み嫌った。


[2000.9.30入力]

ハードボイルド以前〜アメリカが愛したヒーローたち〜

小鷹信光(草思社・1980・144頁)
O・ヘンリーの数々の名作がいまも読みつがれているのは、たとえ楽天的な結末であっても、彼の作品には<人の心>が謳われているからである。それにくらべて、ポー以来はじめて純粋な国産パズルストーリーを生み出したフットレルの作品にあるのは、技巧的につくりだされた<人の意表をつく謎々>だけである。古今東西の傑作ミステリー・アンソロジーに必ず収録される「13号独房の問題」が、ただそのトリックの秀抜さのみによって名作と評価されること自体が、ある意味ではまさしく探偵小説の悲劇なのだ。


[2000.9.23入力]

ハードボイルド以前〜アメリカが愛したヒーローたち〜

小鷹信光(草思社・1980・128頁)
ロマンティック・ミステリー(*ラインハートなど)を得意とした女流作家たちも、そのあとに登場するパズルストーリーの作家たちも、個人的関心とは別に、自作を<問題小説>にすることは避けてきた。パロディにしたり、ヒントや素材にすることはあっても、それを通して、当時の社会を写し取ろうとすることはほとんどなかった。ミステリーが、いっときの楽しみを与える<逃避文学>と呼ばれてきたのはそのためだろう。

1900年代のアメリカ。ロマンティック・サスペンスの勃興。

[2000.9.23入力]

ハードボイルド以前〜アメリカが愛したヒーローたち〜

小鷹信光(草思社・1980・105頁)
「東にも西にも北にも、もはや逃げ場はない」

1913年、アンブローズ・ビアスの謎の失踪(メキシコへ?)

[2000.9.23入力]

ハードボイルド以前〜アメリカが愛したヒーローたち〜

小鷹信光(草思社・1980・74頁)
大衆読物とは、結局のところ、自分で夢さえみることのできない、貧しい人びとに、あらかじめパックされた大量販売の既製品の夢を運ぶ媒体なのかもしれない。


[2000.9.23入力]

ハードボイルド以前〜アメリカが愛したヒーローたち〜

小鷹信光(草思社・1980・23頁)
都会の雑踏のなかで一人の男を執拗に尾行した結果、なにがわかったか? 不条理な結末とおそろしい余韻をのこす「群衆の人」の恐怖の感銘は、ポーの3つのパズル・ストーリーの比ではない。…。…読後に薄気味悪い余韻をのこすのは、はじめに呈示された謎がいずれの場合にも、論理的な、科学的な、あるいは推論による明白な怪盗といった楽天的な大団円とともにすっぱりと割り切られていないがためであることは明らかだ。

→ボワロー・ナルスジャックの『推理小説論』にも同様の言及があるらしい。

[2000.9.23入力]

小説と警察

Miller, D A.(国文社・1988-1996・264-265頁)
小説を読む主体は外部をもたないからだ。この主体は包括的に小説世界を見るが、逆にみられることはなく、他人にも(彼は自分の家で読んでいる)、自分自身にも(彼は小説に夢中だ)目に見えない存在なのである。


[2000.9.23入力]

小説と警察

Miller, D A.(国文社・1988-1996・204頁)
 おそらく、文化制度としての「小説」が支えていると思われるもっとも根本的な価値とは、プライヴァシー、つまりかけることのない自律的で「隠れた」自己を確定することだ。小説を読むことは、読む主体が他者の監視や疑いや読みやレイプから安全でいられる空間の存在を当然のこととしている。しかしこのプライヴァシーはつねに、互いを監督しあい、疑いあい、読みあい、レイプしあうキャラクターたちのことを読む自由だとされる。厳格なプライヴァシーを備えた主体であるわれわれは、犯され客体化された主体について読むばかりか、彼らについて読むという行為をのものによって、彼らを犯し客体化するのに大きく加担する。われわれは、プライヴァシーが侵害されるのをみながら、つまりそれ自体すでにプライヴァシーの侵害であるのぞき見という行為をおこないながら、わが身のプライヴァシーを楽しむのだ。どれほど強く作中人物と一体化しても、われわれの彼らに対する存在論的な優位、つまり彼らはけっしてわれわれを読むことはないということは覆い隠せない。どんな読者も、リベラルな主体という規定された幻想を実現しなくてはならないし、さらにこの主体は、周囲のあらゆるところで監視が作用しているのを見ていながら、自分自身はそこから自由なものだと思っている。この事態が「小説」そのものの構造に組み込まれているのだ。


[2000.9.23入力]

小説と警察

Miller, D A.(国文社・1988-1996・135頁)
 *20  『荒涼館』は、いやしくも文学の名に値するものは謎を尊重し、未解決にとどめておくものだという、モダニズムとともに紋切り型になった立場を予見した最初のテクストの一つである。(→「カフカとの対話」?)…。この立場は手軽な慰めになってくれるだけでなく、満足をつねに先送りして決して満たさないことによって反映している社会に、われわれをいっそう深く縛りつけてもいる。


[2000.9.23入力]

小説と警察

Miller, D A.(国文社・1988-1996・122-123頁)
…小説は自分が取り込んだ警察小説の素材との関係を明らかにする。この関係の一方の側には探偵小説があり、その浅薄な解決はわれわれの完結への食欲を素朴に満たしてくれる。もう一方の側には「小説」があり、これはまさに解決の瞬間に解決不能なものの存在を主張し、人間経験と文学経験の神秘性を甘受してわれわれを空腹のままにしておくという、もう一段上のごちそうを与えてくれる。*20 …。小説はまずは完結の可能性を肯定しなければならないだろうが、そのつぎにはこの完結が不十分であると認める羽目になるのだ。


[2000.9.23入力]

小説と警察

Miller, D A.(国文社・1988-1996・78頁)
彼<月長石のベタレッジ>の語りは「全面的な真実」を語りはしないが、「真実以外はなにも語っていない」と信頼できる。レポートに一部不確かなところがあっても、彼とわれわれの認識能力を傷つけることはない。いつも不確かな部分をそれと明示し、そうすることで支配するという展開にもちこむことができるのだ。ベタレッジに知らないことがあるときは、彼は自分がなにを知らないか知っているし、われわれも知っている。この意味で、彼の言葉が提示してしかるべき認識論的疑問は実際にはまれにしか現れず、マイナーな領域に押し込められている。


[2000.9.23入力]

小説と警察

Miller, D A.(国文社・1988-1996・72頁)
…共同体は自分自身の「正当化」に──自分自身で正義の裁きをおこなうことに──携わっている。この共同体が、監視、裁判、処罰といった通常の司法システム抜きで済ませられるとしたら、それはこの共同体の組織自体が、そうしたシステムの先手をうってみずからのなかに取り込んでしまっているからなのだ。


[2000.9.23入力]

小説と警察

Miller, D A.(国文社・1988-1996・64頁)
いまや他のなににもまして、カフ<月長石の警察官>の介入は、共同体が自分自身をわかっていないということのサインとなる。

「内輪」と捜査側の知の認識論的食い違い。「自然に」獲得された、対象とわかちがたいような知と、うそつきとかかけひきで得られる知。

[2000.9.23入力]

小説と警察

Miller, D A.(国文社・1988-1996・58頁)
最終的にひとりの個人に罪の在り処を限ることは、だから操作そのものの局所化というもっと根本的な戦略の一部と考えられる。操作の目的を(…)限定し、捜査官を(…)制限し、その共同体に干渉する性質を(…例外として)強調するのだ。…。共同体は最終的には調査の対象でないし、それは調査の主体でもない。…。…。…。…。探偵小説という形式のはらむイデオロギーについて語らねばならないとしたら、ここにひとつの核心がある。日常生活を、根本的に警察権力の「外部」にあるものとみなす考えがそれである。


[2000.9.23入力]

小説と警察

Miller, D A.(国文社・1988-1996・56頁)
探偵小説が想定する世界では、あらゆることが事件の解決にかかわる意味をもちうるが、小説は最後には「こぼれおちる」意味を華々しく否定して終わるのだ。探偵小説は数々の記号をまとめあげ、すべてを包み込む完全な秩序を作ろうとする、としばしば論じられる。ところがむしろ探偵小説は、意味の領土を制限し、局所化し、どうでもよい領域の広さを保障するのである。そのうえ、この形式で保障されるものが他にもあるのを見てとるのはたやすい。あらゆることが互いに関連しているという幻想が、意味があるのはそのうち一部だという現実に屈服するのに応じて、いたるところに向けられた疑惑の普遍性は消えうせ、特定のひとつの罪が代わって姿を現すからだ。探偵小説は社会的に無垢な無実の層を作り出す。その企てのモットーはおそらく「真実はあなたの容疑をはらします」だろう。

死体の共同体 誰かが犯行に署名しないと、容疑者たちの容疑は晴れない。一つの群に押し込められているという意味で、容疑者たちの運命は関連づけられている。

[2000.9.23入力]

朱色の研究

有栖川有栖(角川書店・1997・229-230頁)
 私が思うに……殺人事件がテーマだと、死体が登場するわけですよね。死体とは、『あなたを殺したのは誰ですか?』と問い掛けても、それに答えて語る能力をなくした存在です。(略)死体──死者は、こちらがいくら問い掛けても絶対に答えることがない。(230)その不可能性が鍵のような気もします」  (略)  「(略)殺人事件を扱った推理小説の不可能性というのは、換言すると、いくら問い掛けても答えないものに語らせること、ではないかと思うんです。問い掛けても答えないと確信しているものに、答えてくれないと確信しながらなお問い掛けるというのは、切ない行為だと思いませんか?」


[2000.9.12入力]

ミステリの書き方

Keating, H. R.F.(早川書房・1986-1989・61頁)
 形式は楽しみを与えてくれる。  探偵小説はひとつの核となる中心的事実、すなわち殺人によってはじめられる。そして次々に容疑者が登場することで作品の世界が広がっていき、ほとんど最後の瞬間に突然その世界は狭められ、もうひとつの核、殺人者へと絞られる。


[2000.9.7入力]

美濃牛

殊能将之(講談社ノベルズ・2000・320頁)
 「そやから、この犯人もわらべ唄に見立てて人殺しを……」  「そんなことして、なんになるんです?」  石動は両手を広げて、村人達を見回すと、大声で叫んだ。  「誰もろくに歌詞すら覚えていないのに!」


[2000.8.1入力]

フィールドワークの経験

好井裕明・桜井厚(せりか書房・2000・20頁)
さて、次にしなければならないことは、あなたの生活をぎりぎりに、切り詰められるかぎり切り詰めることです。二、三冊の殺人ミステリー小説か何か本当にうっ屈したときのために携帯するものを除いて、すべての資源をあなたから取り去りなさい。

ゴフマン「フィールドワークについて」

[2000.7.27入力]

北米探偵小説論

野崎六助(インスクリプト・1998・611頁)
かれ(探偵アーチャー)の行動は、主として他者の人生の物語を寄せ集め、その意味を発見することに向けられている。かれは、行為する人間というより質問者であり、他者の人生の意味がしだいに浮かび上がってくる意識そのものである。(略)主人公である探偵の概念をこのように磨き上げることが、探偵小説をメインストリームの小説の意図と範囲に近づけるために必要だったのである。

「主人公としての探偵作家」ロス・マクドナルド傑作集 創元推理文庫 1977

[2000.7.12入力]

黄色い部屋の謎

Leroux, Gaston(創元推理文庫・1907-1965・50-51頁)
それに私は、彼のこういうとりとめのない、だしぬけの言葉に幾らか馴れてもいた……とりとめがないといっても、それは私がその言葉にしばしば不可解かつ謎めいた意味しか見出せないでいる間だけのことで、やがて時がくれば、彼の手早く明快な説明によって、私にもその考えの筋道がつかめるようになるのである。そうすると、何もかも、にわかにはっきりしてくる。前に彼の言った言葉、私にはまるで意味がないように思われたさまざまの言葉が、実にやすやすと論理的に互いに結びついてきて、それこそ「自分にもどうしてもっと早くわからなかったのかわからない」ほどなのであった。


[2001.3.18入力]

北米探偵小説論

野崎六助(インスクリプト・1998・536頁)
『九尾の猫』は、開かれた社会派を目指したなぞ解き派の挑戦の再びの収穫であるという連関から読まれるべきだった。(略)この作品は、探偵小説をその社会性の極点にまで破砕しようとして、寸前で止まっている。すぐに取り急いでそれを探偵小説へと回収することを始めるのだ。


[2000.7.12入力]

化人幻戯

江戸川乱歩(角川ホラー文庫・1994・319頁)
「断崖」(?年) 「子供はお仕置きされて、押入れの中にとじこめられていても、その闇の中で何かを見つけて遊んでいるわ。おとなだってそうよ。どんな苦しみにあえいでいる時でも、その中で遊戯している。遊戯しないではいられない。どうすることもできない本能なのね」


[2001.3.10入力]

北米探偵小説論

野崎六助(インスクリプト・1998・425頁)
(『探偵小説五十年』に収録されている戦時中の乱歩の横溝への手紙について) 所詮変格でしかない自作への悔恨が奇妙な屈折で潜在化して、本格謎解きこそが、英米の「本場」主流であり続けるという決定論的序列化がここに確定することになる。

日本の「本格」図式の特殊性の起源? でも乱歩にだけ求めちゃうのもなあ、、

[2000.7.12入力]

アメリカン・ミステリの時代

野崎六助(日本放送出版協会・1995・136頁)
ミステリに連続殺人の話は不可欠だった。そのなかで首が斬り飛ばされ、血みどろの死体がぞろぞろと登場しても人びとはその残虐さに眉をひそめるよりも、大抵は、これは「顔のない死体」なので被害者を替え玉とするトリックなのだと考えることを習慣づけられてきた。『エジプト十字架の謎』の首斬り犯人をサイコと見なす者などいなかった。犯人はあくまで合理的なモードに支配されたゲーム世界の人物だった。しかしこうした断絶の体験がだんだんと成り立ちにくくなっている。現実の連続殺人の話がこうした夢のリアリズムに侵食し、人びとが慣れ親しんできた思考法を変質させ始めている。


[2001.2.8入力]

火刑法廷

Carr, John Dickson(早川書房・1937-1955・91頁)
「私は殺人事件の記事を読むといつも不思議に思うことがあるのです。それはいつも帽子を被り、保険料を払って二十五年間も平凡な生活を送ってきた謹直で内気で、品行方正な男が、全く突然、誰かを殺害して死体を切り刻み隠してしまったというような事件をきくといっそうその感が深いのです。私は何が彼をそうさせたかなどは知りたくありませんが、その犯人の家族や友人達が彼についてどう考えていたかを知りたいのです。彼等はその男の目の輝きとか何かに少しの変化も認めなかったのでしょうか。また、その男の彼等に対するそぶりに変化が見られなかったのだろうか・彼はいつもの通り帽子を被り、相も変わらず子牛の頭のスープが好きなジョン・ジョンソンであり、他に何一つ変わったところがなかったのだろうか。」

犯人片割れのおとぼけコメント。

[2000.7.9入力]

エラリイ・クイーンとそのライヴァルたち

石川喬二・山口雅也編(パシフィカ・1979・110頁)
手品派の一方の将であるクイーンすらも『災厄の町』あたりからリアリズムを気にして描いていることがよく分かる。だから、風俗小説的な面白さは加わってはきたが、筋の独創性という点では、手品性が減って面白くなくなった。

江戸川乱歩「カー問答」の一節。

[2000.7.9入力]

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