吉野ヒロ子,1997,「犯人は告白する──推理小説の社会学──」,「ソシオロジカル・ペーパーズ」(早稲田大学大学院院生研究会)第6号,p71-82

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犯人は告白する

──推理小説の社会学──

1. 推理小説という謎
2. 推理小説の歴史
3. 推理小説の構造
4. 探偵が謎を解く
  (1)死体の共同体
  (2)犯人は告白する
5. 結論

「人間の行為というものは、人間の心理の現れにすぎません。」[Queen;1933-1959, p321]
「探偵小説は純文学になりきれぬ宿命をもっている」[江戸川;1995, p274]


1. 推理小説という謎

歴史を、その時代に発明され隆盛した文学のジャンルによって語ることが許されるなら、20世紀は推理小説の世紀とも言えるだろう。「推理小説」という概念が強固に確立されている日本では特に、フィクション部門でのベストセラーのフトップ10にたいてい3つ4つ常に「推理小説」が入っており、それが「文学」一般においてどう扱われているかはとにかく、文学消費という観点からすれば大きな位置を占めている。
推理小説がなぜこのように読まれているのかという問いは推理小説という形でこれまでもさまざまな角度から取り上げられてきた。とはいえ、なぜ殺人があって最後に犯人とが暴かれるという筋立ての小説 がこれほどまでに読まれ、また日々再生産されていくのかという問題に明快な答えが出されているわけではない。推理小説というジャンルが含まれる「ポピュラー文学」一般の魅力を考えるなら、読みやすいこと、つまり受容理論のタームを使うなら読者の期待の地平と作品の地平がよく順応していることがすぐ思いつく。読者がほとんど自然視するまで馴染んだ自己と社会を想像する手法が作品の内に現れる、と言い換えてもいいだろう (注1)。[Evans;1994] とはいえ推理小説もまた、舞台や登場人物の造形はかなり「現実」という資源を変成させた人工的なものである。「現実」の中ではかくも頻繁に殺人は行われないし、また行われたとしても推理小説の中でのように語られることは決してないのだから。
推理小説は「近代の文学」であるとよく言われる。科学的な合理性に基づいているから、あるいは近代的な市民社会を前提しているから、と。この漠然とした印象は、直観的に是とするほかないものなのだが、その根拠は問おうとすれば霧散してしまう。推理小説の合理性はホームズがどう主張しようと科学的合理性や日常世界の合理性とは全く異なる「推理小説」の論理内部での合理性であり、「リアルさ」を謳う作品群の世界もまた私たちの生きる「現実」とは異なる。そうした内容的な近代社会との相似、あるいは雑誌やペーパーバックなどメディアの発達によって可能になったから、という成立要件の問題だけでなく、「推理小説が近代の文学である」と言うためには、その形式になにが刻印されているかを見届けなければならない。おそらくそこに、推理小説の快楽を保証する読みやすさの土台があるのではないだろうか。
推理小説というジャンルの特徴として、その形式を組み立てるルールがはっきりしたジャンルであるということが挙げられる。そしてそれらルールは単に訓古学的な注釈としてのみ存在するものではなく、推理小説を読むとき、そして書くときに作業の手がかりとして実際に運用されているものでもある。では、推理小説というジャンルの形式とはどのようなものであるのか、それらルールを軸に読み解いてみよう。


2. 推理小説の歴史


そもそも、推理小説の起源はどこに求められるのだろうか。推理小説評論において語られる推理小説の起源はおおむね3つに分けられる。
もっとも古い起源を主張するのは、旧約聖書の中のいくつかのエピソードやソフォクレスの『オイディプス王』を推理小説の原型とみなし、「推理小説」という概念を一挙に普遍化するものである。現在「推理小説」として流通しているものの特異性とのズレを考えるなら、的外れな指摘と言えるだろう。(例えば[Hoveyda;1965-1981])
一般的に是認されている起源は、19世紀前半のポーの「モルグ街の殺人」である。確かに、この作品において、全ての推理小説における探偵たちの祖先であるデュパン、および彼の分析的な思考方法、その友である無色透明な語り手、一見不可能であるかのように見える犯罪、つけ加えるなら非公式の立場で事件に取り組む探偵に対して、有能ではあるが愚直であるために事件の真相にたどり着けない警察組織という、推理小説の特徴が出そろっている。19世紀には新聞や雑誌連載の形で犯罪小説が流行し、実際にあった事件も現在の新聞報道の「事実報告」のスタイルではなく、「読み物」に近い形でセンセーショナルに報道されていたが 、それら現実の「犯罪」そのものの流行とも一線を画すのは「探偵の推理」という特徴と探偵をめぐる世界のセットである。この形式は、コナン・ドイルによって受け継がれ、やはり雑誌の読み切りという形で「シャーロック・ホームズ」のシリーズが1887年誕生し、それとともに「推理小説」というジャンルが徐々に形成されていく。[Haycraft;1941-1992]
もっと後の時代に、1913年ベントリー『トレント最後の事件』をもって近代推理小説の始まりとも言うこともある。たしかにこの作品をメルクマールとして、それ以前の長編小説に見られた「推理小説」というジャンルの掟から見れば冗長な部分がそぎ落とされる (注2) 。この時期に、雑誌連載を後に三巻本あるいは単行本として出すというスタイルではなく、「書き下ろし」のスタイルで作品が書かれるようになったこともこの質的な変化に無関係ではないだろう。「モルグ街の殺人」や「ホームズ」物のいくつかは、探偵が画定した犯人像から新聞を使って実際の犯人を釣りだして解決、というパターンになっているが、この時期の作品から、犯人はあらかじめ作品の記述の中で直接登場した人物に限定される作品が増加していくのも、大きな質的変化の一つに数えることができる。
最後の分け方に近いのが推理小説も多数発表している笠井潔の論で、彼は第一次世界大戦後の英米で、ウォーレスら今日では忘れられている通俗作家たちによる推理小説市場の拡大と平行して起こった、「本格推理小説」pure detective fictionという推理小説の「ルール」に自覚的であり同時に過剰に演出された「死」(注3) ──典型的には「不可能な」犯罪であるはずの「密室」殺人事件──を特徴とするサブジャンルの出現と「ルールの明文化」をもって「推理小説」の誕生とみる。この時期の「本格推理小説家」たちは推理小説論や推理小説史、また埋もれた傑作を発掘するべくアンソロジーを編んでいるのだが、それによって近接する作品や「通俗的な」作例を排除する形でジャンルの画定が進む一方、あとづけ的にポーを始祖とする「推理小説史」が構成されたというのである。日本では、甲賀三郎の「探偵小説講話」(1930)や第二次世界大戦後の江戸川乱歩の評論活動、また大戦を挟んで行われた「推理小説芸術論争」などでジャンルの画定が行われていったと考えることができるだろう。[長谷部;1993] そしてこの時期に「推理小説」が生じた背景として、笠井は第一次世界大戦で生じた数百万単位の「無意味な死」という事態を挙げ、戦場にはならなかったアメリカとイギリスでは特権化された「死」を演出する「本格推理小説」を、実際に戦場となったドイツではハイデガーの死の哲学と作品ではなくベンヤミンらの推理小説評論を生み出したとしている。[笠井;1995,1996] 同様に、スラヴォイ・ジジェクは、推理小説はポーの作品を元型としつつ1920年代にドイルに代表される「探偵物語detective story」からクリスティらの「推理小説detective fiction」へのシフトによって成立したとしている。[Zizek;1991-1995, p97]
とりあえずは、推理小説が近代以降の社会にしか成立しえなかったことは確かである。例えば、中国南宋代の法医学書兼犯罪事例集であり、読み物としても楽しまれた『棠陰比事』(1207)やファン・フーリックによって編集された古典犯罪小説集『狄公案』は地方長官による犯罪の捜査、犯人との知恵比べといった共通する要素も含むが、拷問による自白や啓示など、「推理小説」では排除される要素も明らかに含んでいる。[九鬼;1986] ポーの短編小説が、そもそもは分析的な論理を文学に持ち込む「科学小説」の試みだったとも言われるように、「推理小説」の「推理」そのものが近代社会の産物なのであり、またそれを主眼として「犯罪」を書くには、とにもかくにも物的証拠に基づき論理的に「真実」を追求しうる「近代的な捜査方法」という理念が社会の中に存在するようにならなければならないのである (注4) 。とはいえ、探偵の行う推理の論理性は証拠や証言を地道に汲み上げていく実際の警察の捜査法とは異なった、痕跡からの跳躍をむしろ主眼とするパースの言う「推測abduction」なのだが、現実の捜査と小説の中の捜査の合理性が異なるとしても、なんらかの超自然の介在しない「合理性」が要請されるのは確かなのである。[Sebeok and Umiker-Sebeok;1980-1994]
また、推理小説は別の側面で近代社会という背景を必要とする。細部の手がかりを読み込んでいくことは、特に長編の場合一気に読むことを必要とするために、世紀の変わり目に起こった読書形態の変化、すなわち貸本屋を通じて流通し家庭内で父親の手によって音読されていた、雑誌・新聞連載をまとめた三巻本から個人で購入し黙読する単行本へのシフトや、さらに1930年代のペーパーバックの登場を前提としているという意味で、20世紀のメディアの形式に依存している。[高橋;1989]
「ポー以後」か、「第一次世界大戦以後」かは、なにをもって推理小説とするかによって分かれると考えることができる。推理小説を「犯罪あるいは謎が扱われ、それを解きあかすことが主眼となっている小説」というより広い定義に従えば前者の史観に落ちつくし、一つの世界を設定した上で謎を解きあかしていく手法をより純化した「本格物」を推理小説の本質と見るならば、後者にたどりつく。市場そのものは非−本格物(変格)、ミリオンセラーを出しても理論的な領域では語られない、「推理小説の歴史」にただ現象としてのみ記録されるような作品によって占められながら、もっぱら推理小説内部での理論化はむしろマイナーなサブジャンルにすぎない「本格物」の系譜を通じてなされたという事情によって「推理小説」の本質は「本格物」から抽出されるために、「推理小説」一般からはルールや道具立てへの意識の過剰さにおいてむしろ奇形であるような「本格物」が公準とされるのである。
とはいえ、「推理小説」一般もまた、どの程度まで忠実かはさておき、ジャンルの掟に縛られていることに違いはない。次節ではその掟から、推理小説の構造を抽出してみよう。



3. 推理小説の構造


両大戦間に、推理小説のルール・ブックが、イギリスの作家によって結成された探偵小説クラブの会則や評論の形で制定され始める。探偵クラブ「誓言」(1928)、ヴァン・ダイン「探偵小説作法二〇則」(1928)、チャンドラー「九つの命題」(1944、1949)などが挙げられるが、その中でよく引用されるノックスの「探偵小説十戒」(1929)を見てみよう。

(1)犯人は冒頭から登場すべし。かつ共感できぬ人間たるべし。
(2)超自然的な要因は持ち込むべからず
(3)二つ以上の秘密の部屋や通路は不可。
(4)未発見の毒物や長い解説のいる装置は不可。
(5)中国人を登場させてはならぬ。
(6)探偵は偶然や不思議な直感の力をかりてはいけない。
(7)探偵が犯人であってはならぬ。
(8)手がかりは直ちに公開せよ。
(9)ワトスン役は思ったことを隠してはならぬ。かつ読者の知能よりわずかに低かるべし。
(10)双生児や犯人のそっくりさんは不可。

もちろんこれらのルールは必ずしも厳密に守られているものではなく、いくつも立てられているルールの条項のなかには背反するものもあり、他のルールの中には例えば犯人への共感を積極的に推奨するものもある。また(3)(4)(5)(7)(10)はそれぞれ1920年代末によく読まれていた「通俗」作家の作風を暗に指している意味で、安易なクリーシェの使用禁止と言い直すこともできるだろう。だが、これらいくつかのルールの中から、推理小説に前提されているルール、いわば推理小説の掟を抽出するなら、「フェアプレイの原則」と一般に言われている約束事に収斂する。まず、手がかりは常に読者の前にさらされていなければならないし(ノックスならば8)、それらを組み合わせていく推理は「論理的」で(2、6)、一応の知力を持つ読者なら到達可能でなければならない。また、犯人は通例最初の事件の前に登場し、少なくとも謎解きの場面を迎えた読者にとって既知の人物でなければならないし(1)、推理の過程で浮かび上がる「犯人かもしれない人々」はある限定された被害者と関連した共同体の中に向けられることになる。結末において探偵によって謎があかされ、それは犯人による告白、あるいは自殺や逃亡などの行為によって保証されなければならない。つまり、読者が探偵と競争しながら犯人を追い、結末において明快な回答を得ることもでき、少なくとも結末でアンフェアだという印象を受けないように構成されなければならないのである。またその結末は、読者が理解できかつ「意外性のあるもの」、読者も自力で至れたかもしれないが読者が思いつかなかったような結末でなければならない。[高橋;1989,p22-23]
これらのルールは、ポーの作品やドイルの作品にも確認できないことはない。だが一次大戦前に書かれた作品、例えばクロフツの『樽』(1920年発表)に「犯人の告白」の場面があっても、それは明快に逃亡のための術策として使われるもので、それなりに「被疑者がいきなりべらべら自白する」ことの不自然さをカバーしようとする工夫が見られる。逆に一次大戦後の作品では、弁護士を呼べとも言わずにいきなり告白する犯人という、ジャンルの掟を自明化できない読者には「リアリティのない」場面が頻出することになる。
この原則は、いくつかのサブルールを要請する。ルールブック以後の典型的かつ古典的な「本格」推理小説の粗筋を考えてみよう。殺人が起こる。殺人によって結ばれる共同体が描写される。共同体は、山火事で孤立した別荘に閉じ込められた人たちや、国境を越えて走る急行列車に乗り合わせた乗客のような具体的に閉ざされた共同体であってもいいし、犯行の可能性をもっていることによって被害者を中心に結ばれた共同体であってもいい 。(注5)「犯人でありうる人々の共同体」の中に探偵が登場する。探偵は、精神分析医にしばしば比較されるほど巧妙にこの共同体の外すれすれに立ちながら、関係者に事件に関する証言を求め、一見事件とは関係のなさそうな情報をあさる。探偵は、話し手や読者とともに、犯人が計画した、あるいは偶然に生じた偽の手がかりに惑わされたり、確実な証拠がないために推理を進めながらも話し手と読者の前では示唆に止める。第二、第三の殺人が起こる。その中で推理を組み上げた探偵は皆を集める。探偵はその「皆」の中に含まれていた犯人を告発し、犯人は犯行を告白して準備よく携えていた毒薬や銃で自殺するか、逃亡するか、警察に引き渡される。
この筋書の中から、いくつかのサブルールが書き出せるだろう。例えば、「犯人でありうる人々の共同体」を限定する必要故に孤立した状況設定(「嵐の山荘」)が多くなり、そのような設定を取らない場合には、被害者の生前の交友関係や利害関係が可能な「犯人」を減らすために限定される。「謎」を強調するために「密室」を典型とするような不自然な他殺が必要となる。用心深い犯人のわずかな痕跡を集積しなければならないために「連続殺人」を扱うものの比重がきわめて高くなる。共同体のパニックは時には信じ難いほど抑えられ、現実では捜査の担い手である警察は私人である探偵に従うかそもそも現われない、といった。これらはすべて「フェアな」方法ですべての細部を犯人の名「フーダニットwho's done it」という謎に収斂する投射線として、あるいはそこからそらすための偽の手がかり整序づけるために存在する。
このようなルールのもとに書かれるテクストが提出する謎は、犯人の名前、その動機、その方法に焦点を絞られざるをえない。伏線、思わせぶりに強調された些細な細部すべてはこの謎にいたる手がかり、あるいは手がかりであるかのようにふるまうめくらまし(レッド・ヘリングred herring)として組み立てられていかなければならない。「よく書けた推理小説」とは探偵が謎を明かし終えたそのときに、テクスト上の謎がすべて解かれている推理小説に他ならない。
非−推理小説、例えば推理小説に近い物もかなり書いており、推理小説前史として必ず言及されるディケンズの『大いなる遺産』と比べてみよう。原題Great Expectationが「大いなる期待」とも訳せるように、この小説は、主人公ピップが匿名の後見人の遺産を受け取り紳士として独り立ちすることができるかどうかをめぐって進んでいく。一見この問いは推理小説に常に反響している「犯人は誰か、どうやってやったのか、なぜやったのか」という問いのように求心力をもつ。後半でピップは自ら遺産を放棄するのだが、そこでこの小説が終わるわけではない。この問いの答えが現れる以前に実質を獲得した登場人物達の運命が読まれるべき謎として既に成立しているからである。非−推理小説では謎は一つに局限されたりはしない。登場人物たちの動きの内に、テクストのよじれや文体の中に、あるいは語りの構造そのものの中に存するのである。またそれらは、推理小説の必ず解かれ尽くさなければならない謎riddleとは違って、解かれないままとどまり続けてもいっこうにかまわない謎enigmaでもある。
『大いなる遺産』は<何が起こるか>に焦点を合わせて直線的に構成され、作品の細部という放射線が作品の中である一点──謎の消失点──に収束し、かつそこからそれぞれが一つの謎となって無限に伸び続けていくような作品の一つであると言ってもいいだろう。これに対して推理小説は奇妙な時制をもつ。「なぜなら、たいていの場合、殺人や窃盗の部類に属する<何か=未知数>がすでに起きてしまっているのに、起きたことは模範となる探偵が規定する現在時の中で、これから発見されるように仕組まれているからだ。」[Deleuze & Guattari;1980-1994;p221] 細部は謎の消失点、<何か>が明らかになる局面に向かって引かれており、それらが収束した瞬間、消失点はあらかじめ物語に埋め込まれていた<何か>が起こった時点に重なり合う。その運動において、謎めいた細部は聖別されるのではなくすべて理解可能性に変換され、<何か>もまた謎としての吸引力を完全に失うのである。推理小説は、<何か>が起きた時点と明らかになる時点を両極とする閉鎖された系なのである。
推理小説は謎を主眼としながら、テクスト上の謎を消去しなければならない小説なのである。ここにこのジャンルのテクストの特異性があるのだ。類型的な推理小説のエピローグが生き残った若い男女の結婚で終わることが多いのは、もはや他になにもすることが残っていないからに他ならない。



4. 探偵が謎を解く


このような形式の特性は、推理小説が設定する世界に、それが「現実」と陸続きであるならば枠組みの中に当然含まれているはずのものを消し去る装置を必然としてもたらす。謎を謎として解きあかすためには、「現実」は不向きなのだから。


(1)死体の共同体
クリスティがおそらく初めて自覚的に構成した「被害者の回りに結ばれる共同体」はこのジャンルの掟の総体がもっとも効果的に機能するように設定されたものである。この共同体は被害者と関係があり、それなりのしがらみがあり犯行の可能性を持つ人々によって構成されるものである。
この「犯行の可能性」は、登場人物同士を結びあわせる一方、深刻な断裂をもたらす。クリスティ自身が好んだ「イギリスの田舎町」やマナーハウスに住む「大家族」のような、何十年というスパンで関係を持ち続ける共同体の中で、誰が行ったかわからないが確かに行われ、しかも外部のもののせいにするわけにはいかない状況も明らかであるような犯罪というものは、単に「自分たちの知人が殺された」「自分たちの中に犯人がいる」というだけでなく、「それがだれかわからない」という事態をもたらす。それゆえ、「被害者の回りに結ばれる共同体」が事件以前に存在した共同体と一致していたとしてもそこからは決定的な変質を被っている。問題はもはや犯罪そのものではない。「村」や「家族」のような対面的な共同体の中で、人は関係そのものの長さに支えられた互いの固有性を理解しあっているという確信の元にコミュニケーションを取る。「それがだれかわからない」は、その確信の裏側に実際に殺人に結びつくほどの殺意が潜んでいたという事実をもって、それを転覆させるのである。推理小説に描かれる共同体は、誰かが単発的にそれらしくヒステリーを起こすとしても、決して殺人によってパニックに陥らない。人々は完全に孤立し、共同体の共振は断たれているからである。いわば、この共同体は死後硬直した共同体なのである。
探偵の責務は、「犯人」を名指すことによって「それがだれか」「どうやってやったか」「なぜやったか」教えることである。探偵は社会にではなく共同体あるいは誰かのために奉仕する。往々にして探偵は「犯人」を逃がしたり自殺を黙認したりするのは、法の名のもとにではなく、被害者と、犯人と、可能な犯人たちという具体的な共同体のために推理が行われるからにほかならない。ジジェクは探偵の役割を「外傷的なショックを再象徴化して、それを象徴的現実の中へと統合することである」とする。[Zizek;1991-1995, p116] だがこの「外傷的なショック」は単に犯罪を指すわけではない。
探偵はクライマックスでこの死によって結ばれた「共同体」の成員をあつめ、謎解きをする。犯人は告白によって、あるいは探偵が語り直した「誰が、なぜ、どのように行ったか」に署名することによってこの再象徴化を確認する。確認するほかないのである。秩序を回復し、かつて確信が揺らいだことがなかったかのようにまた殺人以前のように共同体を編み直す可能性を示すこと以外に推理小説は終わりようがないのだから。推理小説の「人工性」は、きらびやかな殺人や華々しいトリックにではなくまさにそこにある。このような外傷的経験は再象徴化のプロセスを経ても、かつて存在したことまで抹消されるものではない。「外傷」とは定義上、忘れられているがそれでもなお主体に還ってくるものなのだから、それが還ってこないうちに探偵は去り、舞台の幕は下ろされなければならないのである。


(2)犯人は告白する
そして探偵はもう一つ別の、推理小説の世界の中にそれが「現実」の写像であるならば存在するはずのものを抹消する。不可解な死の謎を求心力として書かれる推理小説には、犯罪に関するあらゆることが犯罪をめぐる現実の動きに即応して書き込まれうる。毒物や銃器など凶器の数々、様々なありうる動機、最新の鑑識技術、状況を証人に誤認させるトリック、犯罪を引き起こす異常心理、歪んだ人間関係、法解釈。ただ一つ描かれることがないのは、犯人がその犯行において飛び越える閾である。 (注6)
犯人が犯行を告白するとき、あるいは探偵がそれを解説してみせるとき、「犯行」は一つの線的な語りとして再形成されたものでしかない。同じように動機という必然性を持ち、同じように機会という可能性をもっていても、「やってしまった」と言うためには、その前後の状況や殺意に還元できない、なにか跳躍とでも言うしかないものが介在するはずである。殺人が重い罪だからというだけでない。単純に、行為は心理と状況に還元できないからである。
犯罪を主題として扱う主流文学ならば、その跳躍をいかに空白として残しつつ、あらかじめ不十分な言葉でその空白のまわりを縁取るかが作品の鍵になるだろう。例えばカポーティの『冷血』は、現実にあった事件の入念な調査を元に書いた作品だが、取り調べの駆け引きや虚言の末にでてくるのは、犯人のいびつな、ありえないような「動機」の述懐である。[Capote;1965-1978] 推理小説の場合、この空白あるいは謎もまた埋め立てられ説明しつくされなければならない。「理解可能な動機」でなければならない。それ故、おそらく空白によって描かれるようなものでしかありえない跳躍もまた消去されざるをえないのである。「本格推理小説」の立役者の一人であり、推理小説研究や雑誌・アンソロジーの編集でこのジャンルの確立に大きな貢献をしたエラリー・クイーンの作品の一つで探偵は言う。「人間の行為というものは、人間の心理の現れにすぎません」。[Queen;1933-1959, p321]
この行為の心理学化は犯罪そのものにだけ向けられるわけではない。犯罪によって結ばれた共同体あるいはそれ以前の、私たちのそれと全く異なることのないものとして冒頭に描かれる共同体も、この原理に則ったものなのである。それは「当たり前のもの」として、謎を持たないものとして存在する共同体なのだから、そこにあるものは、もし「ワトソン」に解明できないとしても、探偵になら必ず説明できるものでなければならない。登場人物達の行為は語りなおされた「心理」で充填され、探偵はただその上をなぞればすべて説明されうるように推理小説の共同性という装置は既に設定されているのである。閾を越える瞬間は「心理的に説明された」動機に還元され、主体が行為を把持しきれない瞬間、火かき棒を振り下ろした瞬間、つまり出来事と呼ばれるものは抹消される。
もちろん、このようなロジックは推理小説の中だけで作動しているわけではない。アルフレッド・シュッツが詳細に記述したように、我々の生きる「現実」においても、「理解可能性」を、コミュニケーションの可能性を支えるのはこのロジックである。[Schutz, ;1932-1982] 根源的な他者の不可知性を飛び越えるには、まずその他者を「理解可能性」で塗りつぶさなければ、コミュニケーションという賭は割に合わない。「当たり前」の共同体が成立するのもまた、この行為の「意味」が心理として自己自身に対して、また他者に対して説明可能だという前提によるものなのである。とはいえ、我々の「現実」は、推理小説でそうされているように出来事や、主体が意味を把持しきれなくなる瞬間を排除することはできない。「理解可能性」というロジックでいかに塗りつぶそうとしても、それはそこにとどまり続け、不随意に現れる。というより、他者の不透明性と出来事を排除するような空間には、そもそもコミュニケーションは存在しえない。あらかじめわかりあえてしまっている均質な主体の間には、この賭にでる必要がそもそも存在しないのだから。つまり、理解可能性と不能性が表裏一体となって機能する場所に「現実」は存在し、「推理小説」はジャンルの掟に従って不能性のみを切り捨てたところに存在するのだ。「現実」にはありえない「犯人」の告白という装置は、「犯人」が、殺人という逸脱を犯してもなおこの「理解可能性」の掟に限界づけられていることの証左とも言えるだろう。
「推理小説が謎を持たない」というのは単なるレトリックではない。あらかじめすべての謎が消去されうるよう、これら空白部分を塗りつぶすことによってのみ成立する文学なのである。



5. 結論


推理小説は三重の意味で「近代の文学」であるといえる。内容的に近代と呼ばれる時代を前提しているという意味で、この時代に発達したメディア技術によって可能になったジャンルであるという意味で、またその形式が、近代の共同性の実像ではなく理念的なロジックの相似形を描くという意味で。推理小説は我々の生きる「現実」から、語りえぬものを排除し、我々が想像的に構成する共同体の仕組みのみを残すという構造において初めて可能になったのである。これが推理小説の「読みやすさ」を保証するもっとも根元的な層に他ならない。
このジャンルの形式が要請する共同性のかたちは、ウェーバーが描きかけシュッツが完成させた主体と主体と同型の物として設定された他者が向かい合う共同性のロジックに、あるいはハーバマスの嘘をつく可能性を最終的に消去する普遍語用論が描いた理解可能性を主軸とする共同性と同じ系譜にある。この形式がなぜ第一次世界大戦前後生まれたのかと問うことは、シュッツがなぜ大戦間のオーストリアで『社会的世界の意味構成』を書いたのかと問うことに他ならない。社会学と推理小説はたまたま同じ近代という時代に生まれ隆盛したというよりは、同型の共同体を意識する形の二つの切片ととらえることもあるいは可能ではないのだろうか。




注1 もちろん、「ポピュラー文学」の世界の構造と「私たちが現実に生きている『現実』」領域の構造が一致するわけではない。「ポピュラー文学」は、文学というメディアを経由で「現実」を資源としながら、そこに含まれる道具立てをいくつか言い落としたり、固有の戦略を組み込んだりすることによって独自の「真実らしさ」を生成し、そして作品によっては、その「真実らしさ」が「現実」のそれと地つづきであるかのようにそれらを配置するような空間だと言えるだろう。「ポピュラー文学」は主流文学のように「現実」の批評という責務を負ってはいない。それが負っているのは、まずは読み手を楽しませ、慰安を与える義務なのである。もっとも時には、ジャンルの掟を微妙にたわめ、裏返すような作品が「現実」の批評と読み流していく快楽を一致させるのだが。
注2 ホームズ物の「緋色の研究」など中編は、過去の因縁を三人称で描いた長い挿入部分を含み、ルルーの『黄色い部屋の謎』もかなり「推理」という本筋を外れた入り組んだ部分を含む。基本的に、『トレント』以前の長編は犯罪小説や恋愛小説など推理小説と隣接するジャンルとの共通項が多く、現在の「推理小説」に慣れた目からは冗長な部分が多い。
注3 この時期の「本格推理小説」は、たとえばクリスティー、ヴァン・ダイン、クイーンの「童謡殺人」(死体を童謡に見立てて殺人が繰り返される)、クイーンの首を切り落とされT字型に磔にされた死体ととにかく派手である。同時期の日本の例では冷光を放つ死体など「あり得ない死体」が頻出する小栗虫太郎など。また、クイーンの「読者への挑戦状」(手がかりが出尽くしたところで、作者から読者に示される)やカーの密室物を典型とするように、パズルとしての推理小説の性格をかなり強化している。
注4 ヘイクラフトは、ファシズム体制のドイツ・イタリアで推理小説の出版が圧迫されたことなどから、「民主主義が発達した社会にのみ推理小説は生まれる」という仮説を立てている。日本の推理小説も昭和十年あたりから出版しにくくなっていたという事実もあるのだが、それ以前の日本で「民主主義が発達」していたかは疑問である。[Haycraft;1941-1992]
注5 ここで特筆しなければならないのは、近年のアメリカの推理小説である。あくまで読者にとって既知の登場人物、という犯人に関する掟を遵守する日英などの推理小説とは異なり、近年のアメリカ推理小説では、捜査側と犯人側の情況が交差して描かれ、最後に犯人(「異常心理」の持ち主であり、司法の手によって射殺される)が捜査側に明らかになる、という形式の作品が急増しており、このタイプは日英にも広がりつつある。確かに、アメリカは「本格物」を産みながら、同時に多かれ少なかれブルジョワ的な推理小説から「リアルさ」を目指して逸脱しようとしたハードボイルドというジャンルを創設した国ではあるが、それらの作品群においても、犯人は共同体に属する人物であった。このような事態は、単純にジャンルの違いに還元するのではなく、共同体の境界の感覚の差異、メディアへの感性の差異として考えた方が示唆的だろう。
  つまり、推理小説が描くコミュニティは具体的な成員で構成されかつ閉ざされた共同体から、被害者を結節点とした犯人である可能性によって結ばれた共同体へ、さらに外縁はあるものの無限定であるメディアの共同性に広がっている、とも言えるのだが、ベンヤミンが指摘するように探偵達の始祖であるポーのデュパンやホームズが既に新聞というメディアの共同性を基盤として活躍していることを考えれば、むしろ「本格物」の特異性の一つとして共同体の問題を捉えることができるのかもしれない。[Benjamin;1938-1994, p183]
注6 確かに「倒叙」型の推理小説──犯行が起こり探偵が介入するまでを犯人の視点で描き、探偵がどこで正解にいたるかを眼目とするタイプ──というものもある。が、それもまた語る順序を入れ替えた推理小説である以上、この視点は欠けている。



引用・主要参考文献


Benjamin, Walter 1938-1994;「ボードレールにおける第二帝政期のパリ」『ボードレール』収 野村修編訳 岩波文庫

    ボードレール=ポーに関連してちびっとだけどコメントがある。そのちびっとが山椒は小粒でピリリと辛いのがベンヤミンさんってかんじ

Capote, Truman 1965-1978;『冷血』滝口直太郎訳 新潮文庫

    それなりだったけど、なんでカポーティがこれかかにゃならんのかわからんお話

Deleuze, Gilles & Guattari, F四ix 1980-1994;『千のプラトー』宇野邦一他訳 河出書房新社

    ドゥルーズに才能のない私は友達に教えてもらいました

Dickens, Charles 1860/61-1951;『大いなる遺産』山西英一訳 新潮文庫

    前半のだれた暗さ、後半の否が応でも盛り上がりぶりはかなりいっちゃってるかもしれないディケンズさん。でも読み出すとなにやら止まらないのがナゾ。たまたま読み返していたので登板。

江戸川乱歩 1995;『一人の芭蕉の問題──日本ミステリ論集──』新保博久・山前譲編 河出文庫

    推理小説界の淀川長治、乱歩大先生の評論集。その読みの広いこと深いこと。日本の推理小説論でこれをパクってないのは本当にレアです

Evans, Christine Ann 1994;"On the valuation of detective fiction", Journal of popular Culture, 1994, Fall, p159-167

    あんまり関係ないけど手元にあったので。このJournal of popular Culture誌には「チャンドラーにおけるジェンダー」とか心躍るタイトルが目に付く

九鬼紫郎 1986;『探偵小説百科』 金園社

    わりとどうでも良かったけど、東洋近代以前が詳しかったので

Moretti, Franco 1988-1992;『ドラキュラ・ホームズ・ジョイス〜文学と社会〜』植松みどり他訳 新評論

    タイトルのイケイケぶりほど面白くない

長谷部史親 1993;『日本ミステリー進化論』 日本経済新聞社

    最近の推理小説論では一番歯ごたえあったような気がする

Haycraft, Howard 1941-1992;『娯楽としての殺人〜探偵小説・成長とその時代』 林峻一郎訳 国書刊行会

    いわずとしれた推理小説論の古典。訳者はこれ木々高太郎の縁者か? しかしこういう本がその後あんまない、少なくとも訳されていないってどういうことざんしょ

Hoveyda, Frerydoun 1965-1981;『推理小説の歴史はアルキメデスに始まる』三輪秀彦訳 東京創元社

    勘違い本の代表例として

笠井潔 1996;『模倣と逸脱』彩流社
笠井潔・木田元 1995;「密室のハイデガー」現代思想95-2月号 vol23-02 p40-50

    笠井については本文参照。対談の方は推理小説はまりつつ哲学に微妙に色目を使わないこともないよしのさんには大うけの一本。同号は「メタ・ミステリー」特集と言うことで、法月のクイーン論などオタクにはおいしいネタ満載

中嶋昌彌編 1994;『ポピュラー文学の社会学』 世界思想社

    こなれた論文が多いので、とりあえず本読みであれば楽しめる一冊

Narcejac, Thomas 1973-1981;『読ませる機械=推理小説』荒川浩充訳 東京創元社

    ナルスジャックおそるべし! テクスト論的な推理小説論としてはかなり出色の一本。ところでこのタイトルってドゥルーズなのか?

Queen, Ellery 1933-1959;『Yの悲劇』鮎川信夫訳 創元推理文庫

    ひどい引用の仕方をしてしまったが、でもクイーンは愛しているのよう。一番共同性の問題に悩んでる作家なので、クイーン論をこの路線で書いてみたい気もする。ところで「Y」ってどっかにえらいミスがあるらしいとの風聞を耳にしたが、どうしてもわからねえ。知ってたら教えてね

Sebeok, Thomas A. and Umiker-Sebeok, Jean 1980-1994;『シャーロック・ホームズの記号論〜C.S.パースとホームズの比較研究〜』 富山太佳夫訳 岩波書店

    もうこのさい推理小説関連のお勉強本は一通り集めてみました

高橋哲雄 1989;『ミステリーの社会学〜近代的気晴らしの条件〜』中公新書

    名著。しかし制約ある新書ではなく専門書として書いてほしかった・・・

Schutz, Alfred 1932-1982;『社会的世界の意味構成』佐藤嘉一訳 木鐸社

Tani, Stefano 1984-1990;『破れさる探偵〜推理小説のポストモダン〜』高山宏訳 東京図書

    ポストモダ〜ンな推理小説論。ピンチョンとかエーコ

Zizek, Slavoj 1991-1995;『斜めから見る〜大衆文化を通してラカン理論へ』鈴木晶訳 青土社

    ラカン理論というのは精神分析の一派で地獄のようにわかんないことで有名ですが、およそ人のなすことならたいがいがしがし切れる強力なプラグインでございます。ヒッチコックのみならず、レンデル・ハイスミスと「女流」サスペンス系への言及が多いジジェクさん。どっかのインタビューで分析のために仕方ないから読んでいると弁解していたと聞いたが、その言いぐさから察するにかなり嗜癖入っていると見た。この本読んでレンデル読むとさらにレンデルもわかるお買い得な一冊 (ほんまか)

おまけ関連文献
山路龍天・松島征・原田邦夫 1986, 1996 『物語の迷宮──ミステリーの詩学』 創元ライブラリ
文庫判出てるとはつゆしらなかったのですが、タイトルの通り、ミステリーを中心として物語論展開しまくり&各論充実という日本ではほんとーにレアな本。論文書いたとき手元になかったんで参照できず、参考文献から外しましたが推理小説を「読んで」いくという基本的な視点の構築にはこの本に一番お世話になったかも★
 
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