十兵衛様の孤剣〜あるいは権力とはどのような力か(嘘八百万円)〜 柳生十兵衛様(愛)は言うまでもなく、山田風太郎最大ちゅーか唯一ちゅーヒーローでやんす。なんたって、シリーズものを書かない山田風太郎、連作短編を除けば長篇3つで主役はったのは十兵衛様ただお一人でやんす。他に独立した作品にまたがってでてくるのは結局推理物の茨木歓喜くらいか? 鳥居甲斐守みたいにあっちこっちにでてくるキャラクターはいないでもないけど、キャラクターのバージョン違っていて、別に統一された人格でもないしね… しかーし妙な含羞のもち方をする山田風太郎には、たぶん柳生十兵衛の造型はそれがすばらしいものであればあるほどおちりがムズ痒くなってしまったのではないかと思われる節があります。『柳生忍法帖』『魔界転生』『柳生十兵衛死す』と並べて、前2作と「柳生十兵衛が柳生十兵衛と闘って死ぬ」という決着のために書かれたとしか思えない『死す』の間でははっきりと断絶が見られます。てーか『魔界転生』で江戸初期の(ということはたぶん殺人の術として武道が一番完成された時期の)最強の10人の剣豪(しかも魔人)倒しちゃった十兵衛様は、自分自身と相討ちになる以外、死にようがない以上、「柳生十兵衛が死ぬ」ために書かれた本と言うほうが正確かも。 まあ、それはさておきまして、『柳生』『魔界転生』での十兵衛様はさわやか絶好調です。たとえば以下の決めぜりふ♪ 「あの女たちを見殺しにして、なんの士道、なんの仏法。仏法なくしてなんのための天海僧正、士道なくしてなんのための徳川家でござる。もし、あの可憐な女たちを殺さずんば、僧正もしなれる、徳川家も滅びると仰せあるなら、よろしい、僧正も死なれて結構、徳川家も滅んで結構。・・和尚、和尚のふだんの御教えは、左様ではありませなんだか」(『柳生忍法帖(下)』角川文庫 P282) こりゃ『柳生』での敵・芦名銅伯が天海僧正の命運を握っているという事実を知ったときのせりふでやんす。この後、この時代にはありえないムチャクチャな発言に敵味方ぽかんとしてしまうという描写が続きますが、決めぜりふとはかくあるべし、というせりふざんす。 ところでムチャクチャといえば、『魔界転生』の方にムチャクチャな人がもう一人いますです。悪の首領・森宗意軒ざんす。 「家光も死ね。頼宣も死ね。家康の血を分けた奴ら、骨肉相食め。ただ徳川家にたたれば・・われら小西亡臣どもは、それを以て満足せねばならぬ。いや、それを無上の喜びとし、そのためにこそわしは生き、そなたらも生きておるのではないか」(『魔界転生(上)』角川文庫 P200) おい!まじめに陰謀せい!とか言いたくなってしまうムチャクチャぶりです。あとのことなーんも考えていません。キリシタンの世にして地上に天国作る・・・とかふつーキリシタン謀反人としては考えそうなものですが、そもそもそんな理念は森宗意軒、全然信じてないらしい。信じているのはみずからの徳川家への復讐の念だけ。 ほんでは、十兵衛様(と森宗意軒)は「理念」から自由なんでしょうか? ふつーの時代小説なら(りゅーけーいちろーとかしばりょーとか)なら、心の自由=規範からの自由として措定されてたりするあたりがちらちらと見えてしまうざんすが、なんたって昭和32年に自己というもののさだまらなさを副テーマにしこんだ探偵小説を書いている山風でやんすから、そんな素朴な善意が通じる世界は書きはしませんです。 『柳生』と『魔界転生』の共通点を要約してみましょう。「大名」のやりたい放題&将軍になるぜ!野望の巻き添え的に殺された一族の仇を窈窕たる「女人」が討つのを十兵衛様がお手伝いし、そのまたお手伝いの坊主や柳生十人衆と悪いやつの「親玉&下っ端」は全員死んで、「大名」はやり込められて大団円、ということです。(なんか身もふたもない要約だが・・・)一見、古典的な勧善懲悪ざんす。 しかーし、『柳生』から熟読玩味してみましょう。 「幕府がそれをゆるしたのは、たんに大大名の強請におしきられたためでなく、やはり封建制度のいしずえをかためる必要上、侍個人の名誉と主君の意志が相反した場合、後者を重くみようという政策的な方針がきざしていたからではあるまいか。」(『柳生忍法帖(上)』角川文庫 P38) 気に入らなきゃ主君変えてもおっけーな時代から、君が全然君でなくっても臣は臣でなくちゃだめよんな時代へ変わっていく大きな動きの一角に堀事件はあるわけざんす。 ほんじゃー大名は好き放題やりたい放題かと申しますとさにあらず。 「四十万石の領地すべて、人間のすべてが殿のおんもちもの、いざ、これよりは太守らしゅう、思うままに愉しまれませい」(『柳生忍法帖(下)』角川文庫 P43) 芦名一族も明成自身もそう信じています。豊臣時代は荒大名として名をはせ、関ヶ原で東軍側に立った会津加藤家にとって、幕府や徳川家の権威は認めるものの別に幕府の家来だとは思ってやしませんです。自分の領国や領民・家臣は一種の私有物であり、池で凍らせようが使い捨てに淫楽殺人しようがおっけ〜♪なわけです。(その意味で角川版の中島解説はひっかかる・・・) 『柳生』の大団円、加藤家取りつぶし&明成流罪の命令を持ってきた千姫様(愛)に対して、明成は叫びますです。 「問罪とは、堀一族を誅戮のことか? 主人に弓ひいて退去した掘主水成敗の儀は、すでに御公儀の御裁許をたまわったことでござる。その仕置を敵呼ばわりして、なお主家に仇なす女狐どもを刑戮するが何の罪。その罪を問うと仰せあるならば、天下の諸大名は何によって領内の仕置をなすべきか、いかに将軍家御名代なりとも、御法にはずれたお裁きは、明成断じてお受け仕りませぬぞ!」(『柳生忍法帖(下)』角川文庫 P435-436) 処刑と称して堀の娘達をはだかんぼにして磔にしといてこれ言ってるのですが、やってることの趣味の悪さはとにかく、言ってることはあんまりバカ大名っぽくない。権利の主張としては筋が通っていますが、実際の罪状は、明成がごたごたにまぎれてすっかり忘れていた鎌倉東慶寺の男子禁制の法を破ったから、です。鎌倉東慶寺の男子禁制の法は千姫の口添えで家康が再確認したもの。幕府が承認し幕府が保護している権利ざんす。堀一族や領民を虐殺したことではなく、幕府の権威を傷つけたことが正式の罪状。 このパターンは『魔界転生』でも踏襲されています。徳川家康の子で「南海の龍」といわれる頼宣は甥の三代将軍家光の病状が悪い&四代目予定者はまだ幼児という状況にあって、天下への野望にめらめらざんす。それを嗅ぎつけてくっついてきた由比正雪と影で操ってる森意宗軒という図式ですが、結局政治的には家光危篤情報流して頼宣の動きを誘発した松平伊豆守にしめられて終わり、ということになるです。 『陰謀というものは、下が上にたくらむとはかぎらぬ。むしろ上が下に・・公儀が民にむかってたくらむことが多いものでござってな』(『魔界転生(下)』同版 P370) 今度の罪状は(公には問われることはありませんが)幕府の許しなくして武家諸法度の規定を超えた行列を組んで出府しようとしたこと。出府の時、もちろん規定違反と知っていながら行列組んできた頼宣の家臣は「御三家のすることだから通る」と信じて従っているのですが、全然とおりゃしない・・・。御三家だろうが、将軍の血族だろうが、幕府の決めた法を逸脱することは許されないし、法を揺るがせる可能性がある場合なら陰謀たくらまれて排除されるわけです。 『柳生』『魔界転生』の時代というのは、要するに規範というものが恐ろしく密になっていく時代、なにができてなにをしたいかではなく、どの家にどのように生まれたかが人生決める最大の要素になっていく時代であるわけです。『柳生』の場合は家臣の主家に対する、大名の幕府に対する自由が争点となり、『魔界転生』の場合はそれまではアバウトに判断されていた直系長子相続が争点となるわけです。 それを人は権力と呼んだりもしますです。もちろんこの「権力」とは松平伊豆守の陰謀とか幕府という行政機関とかの意味ではなく、それらを一つの結節点として配置し組み替えていくようなわけのわからんうにょうにょした力の織り目総体ざんす。(この場合はもはや「歴史」っていっちゃってもいいような気もするけど) むしろ、柳生十兵衛という山風最大に大衆小説なヒーローは、権力批判としても書かれたのではなかったのかとわけわからん深読みをしたくなるざんす。 ここでいつもより多めに脱線しますと、権力によってひとびとが配置されていくありさまの一つとして山風の戦中日記を読むことも可能かとも思います。具体的にどこの記述がどうとはいえないのですが。山風の場合は戦争体験とそれをどうとらえていくかという作業によって後の作品群を支える山風な思想、特に権力と支配に関するものがでてきたんじゃないかと思っていますが、どんなもんざんしょ。 とまあ『柳生』『魔界転生』って結構皮肉な構造だよね〜というまあそんだけの話なんですがところで! もう一作『死す』もありますですよ。(いえ、忘れていたわけでは・・・) 『死す』では竹阿弥という世阿弥の血を引く能楽師が自作した能・「世阿弥」を入神の境地で演じていると、竹阿弥と世阿弥、また夢幻能と一脈通じる新陰流&陰流を遣い二人と親しい二人の十兵衛が室町時代と江戸時代で入れ替わってしまうというとんでもねえ装置が骨組みですが、室町時代(足利義満)のご先祖・十兵衛と江戸時代(『魔界転生』の後というよりは、別の平行宇宙での同時期ってかんじです)の子孫・十兵衛が交錯しますが、室町時代においては南北朝合体ののち、義満が女御と密通によって作った子を天皇に据え、さらにそのことを明らかにして天皇家乗っ取りをたくらんでおり、江戸時代では幕府によって権限をはく奪されお飾り化方向に追いつめられている後水尾上皇+頼宣+由比正雪が幕府転覆をたくらみってーことで両時代とも天皇家VS幕府の政争が展開されておりますです。 なぜ『死す』の十兵衛が十兵衛様ではないかというと、転移した後はハチャメチャというよりムチャクチャになってるわ、『柳生』では個人的な信義を重んじてかくもあざやかに徳川家や士道の価値をひっくりかえしてるのに、なぜか「天皇家」はひっくり返せさずに義の方を捨てに入っているというあたりなわけです。 なんで十兵衛は天皇制だけはひっくり返せないのか、ピンチはどう収拾ついたのか、問おうにも問えないこの構成・・・それこそが天皇制という権力の特質なのかもおということでとっちらかったままこの稿終わりです。 |