「真理に対する態度」
──『八犬傳』あるいは戯作者としての山田風太郎
 
傑作『八犬傳』は、虚の世界──『南総里見八犬伝』の名場面ダイジェストと、実の世界──十数年かけて『八犬伝』を書き続けていく滝沢馬琴および葛飾北斎など周辺の人々を描いていく作品でやんすが、「実の世界」のクライマックスである馬琴・北斎・鶴屋南北の対話に見られるように「虚の世界」「実の世界」という言葉がキーワードになっており、山風における虚構論となっておりやす。ということは同時に、山風がなに考えて作品を書きつづけたのかを知るには王道の手がかりといことです。卒論以来ふにふにとメディア経験の世界の構築と山風言うところの「実の世界」とのこじゃらけた関係について研究しているフリをしているよしののために書かれたよーなもんではないか!!
馬琴・北斎・南北の対話では、現実の江戸の世界(実の世界)を誤ったものとして正しく辻褄のあった、あるべき世界として『八犬伝』他の「虚の世界」を構築する馬琴、画業という虚の世界に没入し、家族とか世間とか実の世界を捨てて省みようとしない北斎、『仮名手本忠臣蔵』あるいは『南総里見八犬伝』のように「正義」を歌うような虚の世界、およびありえない「正義」に縛られている実の世界いかがわしさを告発し、本当の実の世界、辻褄の合わない世界の姿を示す「東海道四谷怪談」を上演する鶴屋南北と、三つの虚構に対する態度が提示されます。もちろん白内障で失明しながら、平仮名しか読み書きできない嫁・お路に口述し『八犬伝』を完成する馬琴にはあえて言うなら「虚の世界」へ馬琴的なやり方ながらただ没入していく悦楽があるわけで、そうはっきり線引きされるものではないわけですが。
ちと問題の個所近辺を引用してみましょう。(頁数は以下廣済堂文庫版です)
「仮名手本忠臣蔵」にはめ込まれる形で上演された「東海道四谷怪談」を北斎につれられて見にいった馬琴は、即座に「四谷怪談」自体が「忠臣蔵」の裏返しの、けれんたっぷりのパロディであることを看破しその構成の妙を評価しますが、しかしもちろん実際に起こった「正義」を土台にした「忠臣蔵」が大好きな馬琴はそれを汚されたことを不快に思い、奈落見学中にたまたま出会った南北を激しく問い詰めます。
「(略)忠臣蔵という実の芝居に、なぜ虚の怪談ばなしをはめこまれた?」(下 p68)
「さっき北斎老が、花の絵に墨汁をちらしたようだ、といったが、南北さん、あんたのほんとうのねらいは、ほんものの忠臣蔵を愚弄することじゃなかったのかね?」(下 p69)
これに対してぬらりくらりとかわしながら南北は自らの姿勢を明かします。
「(略)ほんとうは、四谷怪談の方が実で、忠臣蔵のほうが嘘ばなし、つまり虚だと、あたしは考えているのでございます」(下 p70)
「もし、あたしの怪談がほんとうにこわいなら、そりゃさっき申しましたように、あれが実の世界をかいたものだからでございましょう。あたしはこの浮世は善因悪果、悪因善果の、まるでツジツマのあわない、怪談だらけの世の中だ、と思っておりますんで。──」(下 p72)
これに対して馬琴は「ツジツマの合わん浮世だからこそ、ツジツマの合う世界を見せてやるのだ」(下 p72)とうめきますが、南北にそれは「無意味な努力」ではないかと笑われます。南北の世界は有害だと言い募る馬琴は、有害の方が無意味より、まだ意味があるのじゃないかと切り返されます。
この3つの立場を仮に「真」──ここでは世界の真理という茫洋とした意味でありどのようなものでも盛り込める器のようなもんですが──という言葉を入れて整理しなおしてみると、馬琴は武士道とか正義とかって理念を「真」とし、「真」と食い違ってしまっている「実の世界」に抗して「虚の世界」を「真」に従って構築します。彼にとっては、「虚の世界」は本来あるべき世界を回復するためのものであり、正しい鏡なわけです。馬琴にとって、彼のイデアルな「真」をくつがえす南北は、まさに「有害」なものです。
馬琴を「ツジツマ合わせだけ」だと嘲笑する南北は正義が無効であるような現実の世界を「真」とし、正義のような建前という「虚」に覆われた「実の芝居」を転倒させるために一種の悪意をもって「虚の世界」を組み立てるわけです。彼にとっては「虚の世界」はむしろそこで生きられているのに理念の上から切り捨てられている「実の世界」の姿をあらわにするための装置です。南北にとって馬琴は南北のリアルなものとしての「真」を覆い隠すためだけの砂上の楼閣であり、それは「無意味」なわけです。
 
つまり、馬琴と南北は「真」という観点から「実の世界」に対して「虚の世界」を組み立てていくという姿勢で一致しながらその方向性が真っ向から食い違っているわけです。そして「真」という問題をもたない北斎はこの対立からはずれており、「実の世界」と「虚の世界」という対立も前二者より弱い形でしか現れません。物語の最後では自分が捨てた「実の世界」のしがらみに追いかけられてとほほな目にもあってますが・・・。それはさておき「実の世界」「虚の世界」という世界の境界は、ただそのへんにのっぺり引かれているわけではなく、なにが「真」なのかという問いをめぐって現れるわけです。
しかし、この「実」「虚」「真」の三すくみの配置の形は、馬琴・北斎・南北の三つの形だけではありません。山田風太郎という作家の作品の流れを考えるなら、明らかにイデアルな「真」を描こうとはしていないし(あ、「悲恋華陣」みたいな武士道根性凄惨物もあったか・・・例外っちゅうことで御勘弁を)、リアルな「真」を暴こうとしている作品もないわけではありませんが(とりあえず思いつくのは「狂風記」とか戦争物あたりかなあ)、それはあくまで山田風太郎の作品の流れの中では早い時期に放棄され、傍流としてとどまっているわけです。『魔軍の通過』でも、天狗党という一つの共同体内部の力学と運動は、ものすごくどろどろした形で人間のリアルな「真」を描くこともできる題材なのに、叙事詩という形でワンクッション置いてアウトプットされているわけです。よしのは趣向のために物語の面白さ殺しているという意味であんまり評価してないけど世評には高い『外道忍法帖』とか「真」とかなんだかどーでもよくなってくる頂点だしなあ・・・。
しかし山風は北斎のように「実」「虚」「真」という問題から外れた所に立っているわけではありません。でなきゃ『八犬傳』は書けないわけで。山田風太郎的には、「真」を求めずに寸止め、というのが自ら定めたスタンスだといえるかもしれません。どうして寸止めするのかと問えば、馬琴はおろか南北のような形でさえ「真」を「虚の世界」に求めることはできない御時世だからかもしれないし、恐ろしく恥ずかしがり屋さんの山風の資質なのかもしれません。
「真」を求めたために馬琴は山風に匹敵する(笑)奇想をもちながら、辻褄合わせの洪水で『南総里見八犬伝』の後半の面白さを殺してしまうわけです。こないだたまたま山本周五郎の『五辨の椿』という作品を読んだのですが、どー考えても非常に分かりやすい若い女の快楽殺人者の話なのに、なぜか法によって裁けない罪もあるとかって話になっちゃってて、わけがわかりませんでしたが、周五郎の馬琴的側面が出ちゃって壊れた話になってしまっていたのかもです。
別の方向から「真」を求めた『東海道四谷怪談』は文句なく傑作ということになってますが、しかしそーいう形で提示されるけれんたっぷりの「真」って後味悪くねえかという気もしないでもないっす。南北は「実の世界」への馬琴より数段洗練された批評があるという意味でもはや近代文学の領域にいる作家として『八犬傳』では描かれているのですが、『四谷怪談』は面白いにしても、この方向性で真を求める姿勢がより強くなれば、日本の自然主義文学とか、あるいは「虚」であるとして告発する対象を道徳やらそういうルールから、私たちが「虚の世界」を構成している方法そのものに拡張するならおフランス実験文学の方へ行くのだとも考えられますが、それって面白いのかよ・・・という根本的なツッコミが待ってるきもしないでもないっす。この方向にそって『五辨の椿』を書き直したら、そりゃーどすの効いた異常心理物になるかもしれませんが、それって趣味が悪いじゃんよという判断もあるわけです。
面白い小説書くなら、「真」に対して入念かつ巧緻に、距離を取らなければならないのです。
 
そしてそうすることによって「実」「虚」「真」の三すくみとは異なるレベルでの「真」という問題が現れます。「実の世界」との関連において浮かび上がるイデアル/リアルという意味での「真」ではなく、「虚の世界」を支え「虚の世界」の中で生きる「真」です。
この「虚の世界」の中の「真」は、上巻の馬琴−北斎の対話の中で暗黙のうちに語られています。
馬琴・北斎・南北の対立において『八犬傳』で描かれる馬琴像をかなり単純化しましたが、なにも「ツジツマ合わせ」るだけの作家が姫君が犬の子をはらんで切腹したら八つの珠が飛び出す『南総里見八犬伝』を書けるわけはないのです。武士の世界に帰りたいと望み、自分の作品を士大夫向けではないしょせん女子供向けと卑下してながら、それでもなおかつ自分の作品の面白さを信じている馬琴は、上半身は説教好きの偏執狂であろうともしょせん下半身は根性入った戯作者なのです。つまり下半身の馬琴こそ山田風太郎にもっとも近い存在なわけです。
たとえば、
「ある史実があってその根を変えずに葉を変える。根を変えないからこそ稗史──伝奇小説となる。ま、これが書くほうも読むほうも一つの遊びになるのだね。この世の遊びにはすべて約束事がある。約束事を守ってこそ遊戯になるのだ。史実に従ってうそをつく。私は戯作者としてこの約束事を守っているつもりだ」(上 p54)
これは確かに稗史小説から伝奇小説のお約束でもありますが、忍法帖から明治物・室町物に至る山風作品に一貫して流れる作法としてそのまま読めますですね。忍法帖の面白さも明治物という発明も、この「約束事を守る」という理念に山風が忠実であるがゆえに生まれたものでやんす。山風という作家の最大の特異性は、その奇想ではなくこの「約束事を守る」という作者としての誠に、かなりユニークな方法で恐ろしく忠実であるという点にあるとよしの的には思ってますです。
「約束事」のもっとも基本的なものは、それがいかに「荒唐無稽」なものであっても「真実らしさ」──「虚の世界」の「真」を保つ、ということだと思います。大昔に読んだもんで早うろおぼえですが、クリステヴァの『記号の生成論/セメイオチケ2』の「テクストといわれる生産性」でレーモン・ルーセルをネタにいかに荒唐無稽な物語が有意味なものとしてとどまるかという分析がいかにもおフランスになされておったよーな気もしますんで、好事家には御参照いただくとして、ジャンル小説(時代小説・推理小説・SFなど)の掟というものは、この「真実らしさ」を保つためのお約束のなんとなく生成されてくる自然法みたいなもんなわけです(推理小説の場合はかなり自覚的になされてますが・・・)。たとえば時代小説ならば、その時代にない物を出したり外来語を登場人物のせりふで使うのは御法度ですが(『笑い陰陽師』のように、雰囲気が何でもアリ入ってて登場人物が密輸入洋書に通じている、という説明があればかなり制限ゆるくなりますが、『鬼平犯科帳』でいきなりやっちゃあそりゃ読者は怒り狂うわけです)、かといってその時代の口語でせりふを書くと読める読者はほとんどいないのでそれはやんなくってもよいのです。
「ぬしも悪よの〜」とかってよく考えたら江戸時代の代官が悪徳越後屋に呼びかけるのに「ぬし」ってほんまに使うんかいという気もするけれど、それは時代劇語としてお約束的におっけーなので、別に近世日本史の研究書をひもとかなくともそれでよい、ということなのです。ついでに言えば言文一致体とゆーことになっている近代以降の書き言葉にしたって、社会学の中には会話分析ちゅーのがありまして、会話を録音して可能なかぎり忠実に書き起こしたのを分析するのですが、それって冗長だわ繰り返し多いわ相づちてんこもりだわ文法むちゃだわ指示語が取りにくいだわで読みにくいことおびただしく、そんなもん忠実に描写しとっては、十分くらいの内容全然ない会話で短編終わってしまうわ実験文学になっちゃって全然売れないわということになるわけです。
というわけでふつーの作家は読者をたまげさせんようにジャンルの掟を守り、逆に言えばお約束小道具なんかをうまくちりばめて作品を作るわけです。しかし、掟を守り小道具を組み合わせただけでは、「そこそこ」までいけても、「面白い!」には至れません。「!」にはジャンルの掟を死角からひねりたおすなり、掟を破るのではなく無効にしてしまうような掟と作者の発明の相克というものが必要なのです。最近の推理小説の新本格系なんかは相克がきわまってわけわからんくなってたりもしますが・・・清涼院流水・・・。
山田風太郎には、独自の論理の感覚があり、妙に独自に律義に作品の一貫性というか整合性を守ろうとしてかえって作品によじれを生じさせてしまうところがあります。愚説「男を女が憎む心」を御参照いただきたいですが、たとえば『魔界転生』なら、三人の娘と基本的にあんまり役に立たない柳生十人衆をつれて敵地である紀伊をうろついてたら、いかに柳生十兵衛といえど紀伊侍に押し包まれて鉄砲打ち込まれたら終わりやないか、とその論理の感覚がつっこんでしまったのかなんなのか、十兵衛にいきなり和歌山まで駈け向かわせて、紀州側および転生衆と奇妙な約定を結ばせることになります。普通の作家なら、もっと簡単に「ぬしも悪よの〜」風にさらっと状況設定の段取りをつけてしまうのだと思うけれど、そういう時代小説のお約束が山風の論理感覚にいったん触ってしまったら、風太郎としては整合性を編み直すためにあえて説明を発明してしまうわけです。その意味では、物語の面白さを犠牲にしても、勧善懲悪の辻褄を合わせようとしてしまう馬琴の態度とにています。その約定が結ばれる場面、また十兵衛があえて破らせにいく場面なんかの作者はみょーに居心地悪そうですが、よしのの気のせいでは絶対ないっす(たぶん)。
『甲賀忍法帖』に顕著ですが、忍法に対する医学的(でないのも多いけど)解説なんかは、おそらく馬琴もかくやというほどしかつめらしい顔をして書かれているのではないかと妄想しとりますが、この論理の感覚に従ってなされています。
つまり、山風まずその奇想が目に付く作家ではあるけれど、忍法帖そして明治物の方法論とジャンルの掟を二つもその生涯において創出してしまい、よしのの博士号取得を危うくさせているのは(滝涙)、この論理の感覚の鋭さとこだわり方が突出していたためだと思うわけです。たとえばハルキ文庫の『男性滅亡』に収録されている近未来物とかには、あるいは社会学SFの芽があったかもですが、この方向の作品は尋常でないほど面白くないっす。史実という制限のない、奇想だけで組み立てていくジャンルに山風は明らかに向いていないわけです。
これに対して史実に従ってうそをつくという、中国4千年の味な歴史を題材にした小説というすっごく一般的な小説の掟を、なるべく正確にかつ大量に史実を取り込み、可能なかぎり大うそつく方向に極めると、みなさまおなじみのさまざまな実在の人物がさまざまな形で出会いすれ違っていく明治物、あるいはこの『八犬傳』そのものが生まれてくるわけです。
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