「男を憎む女の心♪」

・・妄説『くノ一忍法帖』あーんど性欲をめぐる永劫回帰的闘争♪
 
傑作『くノ一忍法帖』は、同時に異様な忍法帖である。
忍法帖における忍者は、尋常の忍者としての体術を除けば、原則として一人一芸、その体質やら能力に特化して磨き上げられた芸は、首領ですら知らない場合すらある。
しかし、『くノ一忍法帖』で大坂落城後の千姫に仕える5人のくノ一の間では、その決め技の一部が共有されている。信濃忍法「月の輪」「幻菩薩」「夢幻泡影」はそれぞれ一人しかふるっていないが、「天女貝」「筒涸らし」「やどかり」は、複数のくノ一に使われている。忍者としての尋常の体術を除けば、「筒涸らし」のように決め技と言える技が共有される場合は、管見ではほかに見当たらない。
多くの忍法帖作品は、技の可能性への飽くなき好奇心によって展開される。忍者は新しい技の開発のためなら平気で本来の任務からわき道にそれ、あるいは味方をも裏切る。非人間的な状況におかれても、我を捨てて軽々と任務を遂行する忍者にとって、一人一芸という原則は唯一残された我であり、この強烈な我があるからこそ、他の我を捨て去ることができるのである。このような一点に集約された我の在り方が兵法者と忍者を分ける一つの公準であるとも言えるだろう。兵法者はもちろん自らの技量に誇りをもつとしても、たとえば魔人になることを拒絶する柳生十兵衛のようにそれはこの世の人の在り方の範囲を逸脱しない。彼らは一人の人間としての我を捨ててしまっているわけではない。忍者の場合、その忍者にしかふるえない技術とは、その忍者そのものなのである。
『くノ一忍法帖』でくノ一の敵となる伊賀鍔隠れ衆はもちろん一人一芸の原則を守っている。彼らは一応の首領である服部半蔵や権勢高い春日の局、主君家康すら軽んじかねないほどに自身の忍法に誇りをもち、同輩の忍法に互いに一目おくことで共同体として結びつき、その意味では最強の我を保っている。しかしくノ一たちはそうではない。技は共有され、忍法「やどかり」によって復讐のよすがである胎児すら共有されてしまう。彼女たちに我はもはやないのである。では、彼女たちは何者なのか。
 
彼女たちと共闘する千姫・丸橋には女としての我がある。彼女たちは夫を殺され、裏切りによって自分たちの世界を破壊した家康に復讐するというきわめて具体的な動機をもつ。この動機によって千姫は千姫であり、丸橋は丸橋なのである。
それに対してくノ一たちは、具体的な動機をもたない。彼女たちがどこでどういう育ち方をしたのかはまったく語られず、ただ魔将真田幸村の配下としていきなり大阪城落城時に姿を現す。彼女たちには歴史すらない。
もちろん彼女たちには秀頼の子を産み、豊臣家が滅んではいないことを家康に見せつけるという任務を持っている。しかし、なぜ家康あるいは後継者の秀忠なり家光なりの命を狙わないのか? それは彼らが豊臣家の遺臣によって暗殺されていないという歴史的事実に照らせば最終的に任務を果たせず、負けてしまうことになってしまうからである。忍法帖の長編作品には、『魔界転生』に典型的に見られるように主題を展開するために敵味方の間で奇妙な制限が加えられる場合がある。風太郎忍法帖の場合このプロットのよじれが逆に作品の魅力として生きてくるわけだが、『くノ一忍法帖』の場合、よじれはこの迂遠な復讐の計画にあり、そこから逆に見ればこの小説は単に女が男と戦うというだけでなく、その戦いに必ず勝つということを主題としているのである。くノ一たちの任務は秀頼の子を産むことではなく、ここにあるのである。そして恐ろしく抽象的な、個の境界をもたない一個の集合体である彼女たちはただ男を殺す女という女の中のえたいのしれないなにものかなのである。

この男を殺す女というものはどこから来たのだろうか。

『忍法剣士伝』の軸となる果心幻法「びるしゃな如来」は、絶頂の女の精を身体が透けるまで吸い出し、それを対象の女にあびせることによって、男が互いに殺し合ってでも手に入れようとする女に変える忍法だが、その精を男に浴びせれば、女が男を憎む心によって自分より優れた男をなんとしても倒したいという心に変える「地獄如来」となる。
「(略)が、これを直接男に浴びせるとな。──ふしぎなことにその男は、男を憎む女性的心情の虜となり、自分より強いと思う男への憎しみの念が体内に満ちる。男への恨み、謀反気、反抗心──で、その対象の男へ刃向かうことになるのじゃ(後略)」

(角川文庫版『忍法剣士伝』p438)

しかし、女の精の中に伏在しているこの憎悪とはなんなのか。
風太郎の作品では、しばしば残虐であり淫蕩でもある美女というキャラクターが物語を動かしていく。『伊賀忍法帖』の漁火、『海鳴り忍法帖』の昼顔御前、『室町お伽草紙』の玉藻の前、あるいは『妖異金瓶梅』の潘金蓮。
しかし彼女達はただその本質としてそのような性格を与えられているわけではない。彼女たちの苦悩はまずは男が自らに向ける視線であり、あるいはその視線が彼女たち自身の欲望を通りすぎてしまうことにあった。彼女たちは社会から孤立し、視線を跳ね返すために大魔女と化し、男の視線が自分たちとは異なる位置に──たとえば聖なる処女に──祭り上げる他の女への憎悪に身を焦がす。しかし、問題はそもそも女と女ではなく、女と男の間にあったはずである。彼女たちは敵を間違えたのである。
さらに言えば初期の探偵小説、たとえば「双頭の人」「黒檜姉妹」などで山田風太郎はより積極的に視線の政治学の中で引き裂かれた女性と、その復讐を描いていることを忘れてはならない。傑作「虚像淫楽」も、女性のマゾヒズムの中の積極的なサディズムの形が主題とされた作品である。山田風太郎は、きわめて男性的な作家という印象をもっているが、おそろしく女性のルサンチマンというものに鋭敏な作家なのである。
『くノ一忍法帖』は彼女たちの復活戦なのである。実際に男を殺していく忍法──挿入された男根を抜けなくさせる忍法天女貝、男が絶頂に達した時にすべての精液と血液を吐きつくさせる忍法筒涸らし、全裸の女体の乱舞をみせ男を狂死させる忍法幻菩薩、そして男の胎内回帰願望を誘い、戦闘能力を奪う忍法夢幻泡影はすべて男が女を見る視線の中にあるさまざまなイメージを結晶して武器としたものである。『くノ一忍法帖』のくノ一達は、転生を果たし本来の欲望をとりもどした漁火であり、昼顔御前であり「虚像淫楽」の森弓子でありその他もろもろの女の中にあったはずの「女が男を憎む心」の精なのである。
 
このような文脈での「女が男を憎む心」は、おそらく近代に入って展開された女性運動−ウーマンリブ−フェミニズムという大きな流れに、もっとも基底的な動因として伏在しているものとも言える。この性をめぐる闘争が、いまのところおそらく唯一のテロリズムと結びついていないイデオロギーとなっているのは、あるいはこの世では忍法筒涸らしが不可能であるからかもしれない。
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